9-09 「ディス/コミュニケーション」

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。
9周目の執筆ルールは以下のものです。
[1] 前の人の原稿からうけたインスピレーションで、[2]Loneliness,Solitude,Alone,Isolatedなどをキーワード・ヒントワードとして書く
また、レギュラーメンバーではない方にも、ゲストとして積極的にご参加いただくようになりました!(その場合のルールは「前の人からのインスピレーション」のみとなります)
【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】

https://note.com/happy_clover912/n/n3f6bb3e1ce4d

https://note.com/b_a_c_o_n/n/ndfab4dbbb617

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

電車の開いている扉越しに会話をしている二人がいる。一人は電車の中、もう一人は駅のホームに立ち発車音の直後に扉が閉まるタイミングで二人の会話は遮られ電車は動き出す。お互いに扉越しに言葉を発さず見つめ返す場合もあれば、どちらかが口を開きそれをもう片方が読唇術のように読み取ろうとする時もある。ややドラマチックな展開だと片方が大声で扉越しに相手に伝えようと努力するが、電車が動き出した音に徐々に遮られたり電車そのものがホームから離れ始めることでその意思伝達は不可能になっていく。大味な映画では時折電車と可能な限り並走して見送るようなシーンも見られるが、現実世界にはそう頻繁には起こらない。

大学生の頃、意思伝達の仕方にハッとさせられることがあったのをふと思い出す。大学の最寄りのバス停に並んでいると時間帯によっては学校に併設されているろう学校の中学生たちと同じバスに乗ることがあった。一人で帰宅するときは大抵音楽を聴きながら並んでいるので周囲の音に耳を傾けることは少なかったが、彼らは身振り手振りで会話をしているため音楽を聴いている自分の視界に映ると興味を惹き、何を話しているのかは理解できないながらもよくその光景を眺めていた。行き先の違うバスに乗るためか何人かが自分と同じバスに乗り込む一方、何人かはバス停に残るので扉が閉まればそこで会話は終わるのだろうなとぼんやり考えていると彼らは扉が閉まった後もお構いなしに手話で会話を続ける。バスがバス停からどんどん遠のき、もうお互いの身振り手振りが見えるか見えないかというところまで分かれたグループ間で手話を続け、そこで一息ついた後同じバスに乗った同一グループ内で会話を再開する。

口頭での意思伝達を自明のものとして捉えていた当時の自分にとって、扉などによって空間と空間が遮られることとコミュニケーションの断絶は半ばイコールで結びつけられていた。そんな中、空間の遮断に邪魔されることなく会話を続けることができた彼らの光景は衝撃的だった。口から発せられる言語に依存していない手話という言葉の形をよくよく考えてみれば当たり前の話なのだが、意思伝達の形が違えばそれを遮るものも当然変わってくる。口頭であれば音、手話であれば視覚的な距離。言葉の形によってコミュニケーションを制限するものは変わる。

自分が音楽を聴いていたため、周囲の音世界から切り離されていたのもその光景が印象付けられた要因の一つだろう。イヤホン・ヘッドホンをつけて音楽を聴いていると得られる聴覚の情報はほぼ聴いている音楽・曲のみだ。その間、視覚的に見える情報と聴覚的な情報は独立するため眼に映る光景は違う次元の世界のように思えることがある。そこで自分とは違う意思伝達の形で、距離に依存しながらも空間に左右されずバスの扉が閉まった後も会話が持続する彼らの姿はふとした瞬間に別次元での思い出のように蘇る。

片道一時間強かけて通学していた学生時代、特に一人での帰宅時は何かと寂しい思いをしたがそれを紛らわせてくれたのが音楽だった。当時狂ったように聴いていたWilcoのYankee Hotel Foxtrotを久しぶりに聴き直してみるとそんな感情や人々のコミュニケーションを断絶するスラッシュ/は言葉の形によりけりだと感じたことを思い出す。このアルバムを聴き返すたびに色々なことを思い出すのは、きっと自分にとっての記憶の縦パスのスイッチなのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?