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3-05「汚れ」

7人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。
前回は葉思堯の「辺疆」です。今回は、Ren Hommaの「汚れ」です。それではお楽しみください!
【杣道に関して】
https://note.com/somamichi_center/n/nade6c4e8b18e

【前回までの杣道】
3-04「辺疆」/葉思堯
https://note.com/celes/n/nea5127c83d7c
3-03 「鏡像と写真、そして〈わたし〉」/親指P
https://note.com/kantkantkant/n/n6d9b8f88d011?magazine_key=me545d5dc684e

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思い返してみれば子供の頃から何かを「汚す」ことに密かな快感を得ていた。記憶を辿ってみると、新築もしくは小綺麗な家を訪ねたときにピカピカに磨かれた大きな窓ガラスを見たことがきっかけだったように思われる。指紋一つ付着していない、外の景色を一望できるガラス板を目にした瞬間、それっぽく言えば自分の何か痕跡のようなものを、当時の子供ながらの心境に照らし合わせて言うならばある種のマーキングのようなことがしたかったのだろう。誰も見ていない隙にこっそりと付けた右手の人差し指の小さな指紋。今になって振り返ると、誰かがその窓ガラスの前を通るたびにマーキングがバレないかドキドキしながら一種の背徳感に近いものを感じていたのかもしれない。帰り際に、着ていた衣服の袖でこっそり付けた指紋を拭き取り何事もなかったかのように立ち去るまでが汚し終えること。

「汚す」ことにも自分なりに決めたルールがある。ルールというほどの大げさな言葉よりも、汚す行為に気が引けてしまうものとそうでないものくらいの言い方がしっくりくるかもしれない。例えば、大雪が積もった翌日のまだ誰も通っていないきれいな雪道に、早起きして映画「シャイニング」よろしく他者を撹乱するためどちらの方向へ歩いていったかわからなくさせるためにつける小さな泥の足跡といったものは大好物だ。時間とともにいずれは消えてしまうもの、誰にもその痕跡があったことがわからなくなるもの、このあたりが気が引けなかった道標の役割を果たしていたのだろう。一方、修正に手間がかかったり下手したら取り返しがつかなくなるもの、油性ペンで誰かの顔に寝ている間に落書きをするといったことには怖気付いてしまう。

他者の私的な部分に付着させるものや、公共の場でも拭い去ることが困難なような形での痕跡は忌避し、その場限りの汚れへのこだわりを持ち続けたのには記憶との結びつき方に端緒が見え隠れしている。今となっては完全にかき消えてしまったが、かつては確かに自らが付けた汚れを記憶の中に植え付けることでその時の出来事や感覚のイメージを生起させる。現存するその汚れがないからこそ、ふとしたきっかけで記憶の中の汚れが残像として立ち現れる。「汚す」行為そのものだけでなく、消えてしまった後に記憶として汚れが残るところに到るまでの道のりこそが密かな快感だったのだろう。

他方で長く残り続ける汚れへの願望、とりわけ制作時にこうした欲求が生まれてくる。音楽制作の作業をしていると、ある音を歪ませたり倍音を加えたりノイズを意図的に混入させることで「汚す」ことはできないだろうかと無意識のうちに考えてしまう自分がいる。消えてしまう痕跡と相反する作品として残り続ける汚れへの執着は、とりわけミキシングまで一人で完結させるような、最終的な完成形の判断が自らに委ねられているときほど強くなる気がする。

何かしらの形で他者に関わるものに付着してしまう、長い期間に渡る、あるいは永久に残る可能性をもつ汚れに対する嫌悪感は変わらず持ち続けても、自らの秩序内のこととなると話は変わる。例え作品という形でその汚れが残り続けようとしても、その結果を自分で受け入れられるのであれば、冒険の一つもしてみたくもなる。ここでの汚れは、先述したいずれは消えてしまう一時的なものではなく、いつまでも残り続ける指紋や手垢のようなものに近いのかもしれない。

限りなく透明に近い音像を持つ曲の編集を手がけるたびに自分の中の悪魔が「どこかもっと汚しちまえ!」と囁く。そして、その声に従い幾度となく汚してきてしまったこれまでを振り返りながら、ふと自分の両手に目を落とす。子供の頃に比べて少しばかり汚れている気がする。

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次週は3/14(日)更新予定。担当者は蒜山目賀田さんです。お楽しみに!

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