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石川信雄『シネマ』評:天使とロンド・ロンド・ロンド

モダニズム歌集評第5回
底本:石川信雄『シネマ』(茜書房、一九三六)
書影は『現代短歌全集』第七巻(筑摩書房)より。

石川信雄は早くから筏井嘉一と行動をともにし、新芸術派の嚆矢たる『エスプリ』創刊にも参加しています。『エスプリ』の廃刊後は前川佐美雄と行動を共にし、戦前は佐美雄の主宰する雑誌『短歌作品』、『カメレオン』、『日本歌人』の全てで活躍しました。作品発表は一九三〇年代半ばまでであり、その後は評論・エッセイの書き手として知られるようになります。日中戦争に際して徴兵され、南京軍報道部勤務、中国では通訳として軍務にあたったようです。
戦後は前川佐美雄主宰の『オレンジ』に参加、また石川信夫の筆名を用いるようになります。のちに結社『宇宙風』を創刊しました。一九六四年没と、五〇代半ばに早逝したことが惜しまれる歌人です。

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天使が来る。石川信雄の短歌は新芸術派の中でも幻想性が強いことが特徴である。狂気のうちに幻を見るならば、石川の短歌が思い出されるのではないか。

駱駝(らくだ)等のむれからとほく砂原によるの天使らと輪踊(わおど)りをする
われつひに悪魔となつてケルビムの少女も海にかどはかし去る
数百のパラシユウトにのつて野の空へ白い天使等がまひおりてくる

砂原に天使が来る。古代イスラエル人が見た幻(ビジョン)は聖書に書かれている。野原に天使が来る。百や一千や一万といった巨大な数が頻出することは、モダニズム期の特徴として以前挙げた。とはいえ、天使が落下傘で降りてくるというのは考え難い。天使には翼がある。なぜ軍隊よろしくパラシュート降下などするのだろうか。この天使は、祝福よりも破壊をもたらすのだろうか。
ケルビムは、旧約聖書のエゼキエル書に詳しくその姿が描かれている天使だ。四つの顔、四つの翼、四組の両手をもち、十字に直交する形で組み合わさった車輪の上に直立しているらしい。おそろしい姿だ。英語の聖書ではクリーチャーと表現されていた。しかしながら、絵画では不思議なことに赤子の姿で表現されることもある。少女として描かれたとしても不思議ではない。自分自身を悪魔と描く思春期のような自意識が、歌におかしさを添えている。

わが肩によぢのぼつては踊(おど)りゐたミツキイ猿(さる)を沼に投げ込む
すつぱりとわれの頭(かしら)を斬りおとすギヨテインの下(もと)でからからと笑ふ

歌に登場するのは天使だけではない。「ミツキイ猿」はおそらくミッキーマウスであろう。黒瀬珂瀾もミッキーマウスが日本に紹介された時期を踏まえつつ、これを「皮肉な受容」として紹介している(『ねむらない樹』vol.9、五六頁)。憂鬱でナーバスな主体像が見えてくる動作である。石川信雄には毒舌なところがあり、『石川信雄著作集』収録の「歌壇軍人見立」という文章では、当時の歌人たちをおもしろおかしく描いている様を読むことができる。
「ギヨテイン」もといギロチンの歌は前川佐美雄の次の歌が思い出される。

  • 床の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし

  • 前川佐美雄『植物祭』(一九三〇)

自分自身の首を自分以外のカメラから描写する様子はどちらの歌にも共通しているが、石川の歌は幻を幻だと説明しないまま歌が終わってしまう。ギロチン刑に処されたあと、胴体から離れた首は数秒間意識を保っているという噂もあるが(いかんせん確かめようとする者は死んでしまう)、この歌の「頭」は、まばたきどころかカラカラと笑っていて不気味である。読者の方が悪夢をみている心地になる。今敏監督のアニメ映画『パプリカ』における妄想のパレードのようだ。

今日われはまはだかで電車にのりてゐき誰知るものもなく降(お)りて来ぬ
白雲の上飛んでゐる裸か身はとりどりの地の色うつしゆく

異常さは歌集の中で途切れることなく描かれる。裸で電車に乗っている人がいれば、駅のホームに並んでいる時点で駅員さんに捕まり、鉄道警察に事情聴取されるだろうが、この主体は誰にも気づかれずに降りてしまう。
ところで、二首目の歌は思いのほか写実的かもしれない。人間は裸で空を飛ぶことはできない。しかしその点に目をつぶれば、地表に反射した光が素肌にあたり、地面の色を映すこともあるだろう。飛行機に乗ると、地面から跳ね返ってくる光は海の上と陸の上ではだいぶ質が異なることに気がつくと思う。そのように、とりどりの地の色を身体に受けていると思い描くことは理にかなっている。

すばらしい詩をつくらうと窓あけてシヤツも下着もいま脱(ぬ)ぎすてる
大好きな身ぐるみもここにぬぎすててまつさをな水に飛び込まうとす
すはだかにならうと決めた眼の前に街が木が顔が起きあがり来る

先に理にかなっていると書きはしたが、このような歌をみると撤回したくなる。歌の中で露出癖でもあるのだろうか。服を脱ぐことが狂気を担保すると考えたのであれば、そのようなありきたりな狂気に読者がおそろしさを感じることはないだろう。その点ではじめの二首は失敗していると思う。
ただし最後の歌は、そのような狂気のよそおいを凌駕する狂気が主体の目の前に現れる。悪魔の格好をしているうちに本物の悪魔に出会ってしまうようなものだ。クリストファー・ノーランの映画『インセプション』では、夢の中に入ってある要人の頭の中から重要な情報を盗みとろうとする産業スパイの活躍が描かれていた。盗むことができるなら、逆にイメージを植えつけることもできるのではないか、というのがタイトル「インセプション」の由来である。映画の筋はさておき、この映画では夢の中のビル街が直角に立ち上がり、重力があべこべになった世界が登場する。「街が木が顔が起きあがり来る」景は、そのようなものとして想像するべきだろう。映像表現が石川信雄の歌に追いついたのである。

空の上にもひとりのわれがいつもゐて野に来れば野の空あゆみゐる

石川信雄を含む新芸術派が目指したものは、明星の浪漫主義にアララギの写実主義を加味し、さらに人間生活への反省を織り込むことで、新たな浪漫主義の地平を切り開くことであった。詳しくは『石川信雄著作集』収録の「新古典主義について」を参照されたい。平たく言えば、抒情的かつ現実的に、ただし批判的に、となるだろう。引用歌はそのテーゼを体現したようなものだ。現実的には、もう一人の自分自身が空の上にいることはない。しかし、実感としては理解できる。そのように実感できる点が現実的である。この「われ」は、自分の動きと同期している。実感できないのであれば、想像力が欠如しているのだ。そのように批判が込められているかのように、歌の言い切りは確信的だ。
モダニズムの完成形はここにある。問題はここから先にどう進むかだ。石川たち『日本歌人』のメンバーの答えは「新古典主義」であったが、石川自身は程なくして歌をやめてしまった。石川の第二歌集『太白光』は、まだ現物を確認できていないものの、中国での歌を集めたものらしい。
モダニズムの夢の続きはわからなくなってしまった。

石川の歌集は以下のリンクから読むことができる。ただし、利用には国会図書館への情報登録が必要であることに注意されたい。
石川信雄『シネマ』:国立国会図書館個人送信サービス


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