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北山あさひ『崖にて』:侍、そして杉元佐一。

沖縄にはHacksaw Ridge(弓のこ尾根)という崖がある。またの名を浦添・前田高地、太平洋戦争末期の沖縄戦における激戦地のひとつとして知られている。メル・ギブソン監督の映画『ハクソー・リッジ』の舞台としても有名だ。私は崖といえば戦場か、そうでなければバンザイ・クリフか、あるいは自殺の名所しか知らない。だから、この歌集のタイトルである『崖にて』の「崖」とは、どのような場所なのだろうかと率直に思う。

お豆腐はきらきら冷えて夜が明ける天皇陛下の夢の崖にも
掌(て)の中に小さく祈るちいさくちいさく心の果てに崖はひらけり

「八月の崖」(p.94, p.104)

しわしわの崖の肌(はだえ)に陽がさせば昏き胸より剣うまれくる

「崖にて」(p.225)

『崖にて』に「崖」の歌(「断崖」含む)は見つけた限り六首ある。そのうちから三首を引いた。三首目は歌集の最後に、歌集の名を付されて置かれている。一首目、二首目を含む連作「八月の崖」は、太平洋戦争の記憶を引用しているものであった。この歌集でも「崖」はある程度戦争と国家に関連付けられているようだ。

『崖にて』は不機嫌な歌集だ。不機嫌なのはおおかたお金がないからである。この歌集に描かれている「非正規」で「女」の「北山あさひ」を読者はどうしたらいいのかという問題は、すでに『現代短歌』二〇二一年一一月号掲載の乾遥香による書評「北・山」(BR賞次席)が扱っている。私は、こうした側面からではなく、ナショナリズムとの対峙という観点から『崖にて』を読み解いてみたい。

海山(うみやま)のじいんじいんと鳴りやまず駆けだす元日本兵の孫

「八月の崖」(p.102)

どの島で誰が戦ったのか誰も知らず飯塚好之助、風のじいさん

「オリジナル スマイル」 (p.219)

歌集に従う限り、「飯塚好之助」はおそらく「北山あさひ」の母方の祖父である。配属された戦地が南洋であったことは歌集後半で明かされる。バンザイ・クリフは南洋サイパン島の岬である。もちろん「元日本兵の孫」であることは「北山あさひ」特有の事象ではない。注目したいのは言及することの作用だ。自ら「元日本兵の孫」と宣言することで、「北山あさひ」は自分自身と強く関連するものとして、国家や戦争を想起することが可能になる。

恋人が兵隊になり兵隊が神様になる ニッポンはギャグ

「八月の崖」 (p.101)

「ニッポンはギャグ」の諷刺はこのようにして増幅される。親族や身近な人間からすれば、国が神社を建てて、生きていた人を神様にしてしまうのは「ギャグ」でしかない。ホラー映画で、超常現象が大げさすぎてギャグに見えてくるのと似たようなものだ。そしてユーモアとペーソスは表裏一体である。主体の身内に元日本兵がいることを読者に意識させることで、この歌は、兵隊が人としてではなく神様として弔われることへのかなしみを想起させるのではないだろうか。

ところで、「昏き胸より剣うまれくる」崖は、いわば表題歌で描かれている景であり、戦争と国家の文脈からは逸れているように思うかも知れない。たしかに表題を付されているのはこの「崖」であり、「八月の崖」ではない。しかし私は、依然として、『崖にて』をナショナリズムに対峙している歌集だと思う。

雪つぶの固さに冴えてゆくこころ剣客だから速足で行く

「剣客だから」 (p.158)

六月の退職届、そののちは心のなかの侍も眠い

「六月と狛犬」 (p.86)

胸から生まれきた「剣」を誰がどのように使うのかわからないが、「北山あさひ」は剣客であるらしい。それに「心のなか」には「侍」がいるらしい。「侍」が登場する歌は歌集に三首見える。ところで、侍ジャパンは野球の日本代表チームの愛称として知られる。持っているのは刀ではなくバットであるが、侍ジャパンである。スポーツとナショナリズムの関係は言うまでもない。しかしこの歌集では「北山あさひ」を経由することで、「侍」のナショナリズム性に変奏が加えられている。

はるにれの裸の胸を、その虚(うろ)を 武士道はただのプリンであった

「六文字」 (p.186)

体に心こころにからだ粛々と大根を煮る武道のように

「冬の人」 (p.69)

武士道は、支配階級たる武士の道、即ち道徳である。対して武道は、武士道と同義であることもあるが、武装して戦うことの技術という意味もある。武士の道徳を「プリン」と言いながら、返す刀で「大根を煮る武道のように」と描くとき、「武道」は武士道と切り離されて、技術としての側面が強調される。

四月十一日雪の吹き荒れて北海道は武道なんです

「春風」 (p.83)

感情が大きな鮭で遡るその川の名が私、なのだと

「川の名前」 (p.116)

「北川」と間違われても振り返るたいせつなのは「北」なのだから

「ひこうき雲」 (p.174)

また「武道」は「北海道」でもあるようだ。いや、北海道の猛烈な吹雪や厳しい寒さとともに生きることが「武道」のようであるという意味だろうが、この言い切りには説得力がある。侍は武道の達人だ。「北山あさひ」において、北海道は侍と結節するのである。
そして、「北山あさひ」は「ニッポン」の「北」を積極的に引き受けようとしている。巨大な北海道。川に鮭の泳ぐ北海道。キツネの住む北海道。旧植民地では国の断面が見えやすいのだろうか。北海道を呑込み、崖は「北山あさひ」の心象において、危機に抗って生きる延びるための起点となっていく。
これは、生活の中の危機よりも、災害の場で輝くものだと思う。二〇一八年の北海道胆振東部地震に伴う北海道全土の大停電を描いた連作「大停電の夜に」は、『崖にて』中の白眉だ。

人だけが人を見ているゆうぐれの手信号 まだ滅んでいない
元気とはちがう力で生き延びる そうだね不死身の杉元佐一

「大停電の夜に」 (p.147, p.150)

災害の現場では、信号機の代わりに警察官らが手信号で交差点の交通整理を行う。その様子が描かれていると、たしかに「まだ滅んでいない」と共感する。しかしこの人は同時に、「人だけが人を見ている」と冷めた目線を持っている。熱っぽくて同時に冷静な感覚は、きっと戦いに必要とされるものだ。
杉元佐一は明治四〇年代初頭の北海道を舞台とした漫画『ゴールデンカムイ』(野田サトル)の主人公で、日露戦争帰りの元日本兵だ。金塊をめぐり北海道各地を旅するこの物語において、彼の不死身性は戦いの場で発揮されるものであり、生活とは違う次元にある。ここでは、杉元佐一の戦いの場における性質が、大停電という災害の場に引きつけられている。このやり方はギャグのようにも思えるし、また力強くもある。

北山あさひは北を呑込み、その中には侍がいて、そして杉本佐一もいる。ただ、ただ、そうやって大きなものと一体化することは心地よいことだと指摘しておきたい。そしてその心地よさに歯止めをかけているのは歌集の不機嫌だけだ。崖はやはり危うい場所である。読者はこの危うさにどう向き合うのか。これもきっと、歌集に含まれる問いの一つに数えてよいと思うのである。

・書誌情報
北山あさひ『崖にて』(現代短歌社、二〇二〇)
※第七回現代短歌社賞受賞による歌集。

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