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暮田真名『ふりょの星』評:ふりょとの遭遇

底本:暮田真名『ふりょの星』(左右社、二〇二二)

ふと夜空を見上げると、そこに『ふりょの星』が現れた、というようなことはなく、多くの人にとって、この句集(実物)との出会いは書店であると思う。しかしながら、暮田真名の川柳作品には「遭遇」のイメージがつきまとっているような気がしてならない。草むらを歩いていたら「やせいの ピカチュウ が あらわれた!」といった遭遇から、幽霊との遭遇(それは恐ろしいものだ)、あるいは宇宙人とのファースト・コンタクト。そのような、ワクワクと恐怖と驚愕に彩られた「遭遇」の中に、『ふりょの星』は位置している。

最近の中華料理は揮発性(p.81)

例えばこの句。「最近の○○は」と言われると身構えてしまう。次に来るのはほぼ確実に非難の言葉だからだ。「最近の中華料理は」味気ないとか、手が出ないとか、口に合わないとか。しかし、この句では「最近の中華料理は揮発性」らしい。揮発性? いま、目の前に(頭の中で)あったはずの熱々のおいしそうな中華料理が、忽然と消えてしまった。怪現象である。しかし、「揮発性」ならば仕方ない。仕方ないのか? いや、そんなはずはないのだが……。ともあれ、「最近の○○は」が引き連れてくる文脈に対して、とんでもない言葉が接続されているのは確かだ。荒唐無稽である。だからこそ、笑いがこみ上げてくる。

環状線を書影が走る(p.90)
物心から銃を取り出す(p.33)

これらの句も、先に挙げた「中華料理」の句と似たような構造をしている。「影が走る」のを見るのは心穏やかならざるものだ。植え込みの隙間に走る蛇らしき影ならばまだしも、家の中で、カサカサ……カサカサ……と移動する影を見かけたらば、多くの人の心には警戒警報が鳴り響くはずだ。しかし、安心できることに、走っているのは「書影」である。いや、安心とは少し違うようだ。もちろん、ラッピング広告がされた車両のこともイメージされるであろう。それでも、知っている本の書影が高速で移動している様子を環状線外から見つけたときには、思わず「あっ!」と驚くはずだ。
次の句「物心から銃を取り出す」には、そんなところから銃を取り出さないで欲しいと思ってしまう。そもそも、「物心」はある程度年を取っている人全員についているとされるものだ。「物心つく前」は幼年期に限られる。そこから銃が出てくる。意外なものが、意外なところから出てくると、手品のようにおもしろい。おもしろいけれど、どうか、どうか、危ないのでしまっておいてくれませんか。読者としての私は、このような不安と驚愕の間をゆらゆらと漂いながら、暮田の句を楽しんでいる。

手品といえばこのような句もあった。

家具でも分かる手品でしょうか(p.28)

七七のリズムの句である。そのような川柳の一形式もあるらしい。幼児向けの本は、物心つく前の子どもにも理解できるように作られていることが多い。しかし「家具」には物心のつきようがない。それにしても、この句における「分かる」は両義的である。手品を楽しむことができるという意味なのか、それとも、手品のタネが分かりやすく、真似しやすいという意味なのか。とんでもない所から問いが飛んできたものだ。いずれにせよ、例えば椅子に手品を披露して、椅子から拍手喝采を受けることは、ないように思う。問いに「いいえ」とすぐ返してしまいたくなる。しかし、「家具でも分かる手品」があるのかどうか。この戸惑いに立ち止まることで、暮田の句はおもしろみを増していく。

さっきまで合格圏にいた虎だ(p.131)
水も滴るボイスチェンジャー(p.46)

もちろん、全ての暮田真名作品について「家具」の句のように考え込む必要はないだろう。「虎」の句には素直に頑張れ☆と思うし、「ボイスチェンジャー」の句にはほんとうに良い声になりそうだな、と納得する。「遭遇」することのいいところは、どこからでも読めることだ。この本はてきとうに頁を開いて、不意に目のあった一句を読むことを許容してくれる。ところで、暮田真名には『ふりょの星』以前に『補遺』と『ぺら』の二つの川柳句集がある『ふりょの星』はその二つに収録されている句もあれば、そうでない句もある。ことさらおもしろのは『ぺら』の方で、これは本ですらなく、B1サイズの一枚紙だ。家の中に貼っていると、いつも違う句と目が合う。こうした体験を可能にするポスター形式、そして遭遇性を私は喜ぶ。貼ることのできる場所を確保することには苦労したが。

もちろん『ふりょの星』には、連続して句を読んでいくことの楽しみもある。

浸透圧で走るトラック(p.122)
菊は東名高速道路(p.123)
静電気でまかなう旅の交通費(p.123)
富士山に感情線を置いていく(p.124)
等高線がどこにもないよ(p.124)

句集中、「もしもし、」一連のうちから連続する五句を引用した。「静電気」の句と「富士山」の句は同じ頁に印刷されていて、かつ前者が五七五、後者が七七の形式であるので、短歌に親しんでいる身としては、一瞬だけ、おぼろげに短歌のように見えてしまった。「感情線」は手のひらにあるもので、「等高線」は富士山などの山にあるもので、続けて読むと、あたかも富士山に感情線を置いてきてしまったために、等高線が富士山から消えてしまったかのように思えてくる。
「浸透圧」の句と「菊」の句についても、連続して読むと、トラックが走る場所として「東名高速道路」に繋がりが出てくる。それにしても、浸透圧は圧力の中でも不思議な力だ。その力で走る不思議なトラックがあったらいかにおもしろいことか。
もっとも、「東名高速道路」の句と「旅の交通費」の句の繋がりはパラレルなところがある。静電気のバチッというイメージから真っ先に連想されるのは、交通系ICカードのピッという音であろう。この「旅」の移動手段は高速道路を車で走るものではなく、電車と捉えた方が据わりはいい。ドアノブに触れて静電気を食らうたびに、Suicaに一円くらいチャージされないものだろうか。

『ふりょの星』はある程度テーマの似ている川柳を集める形で章立てがなされている。それが一番分かりやすい形で現れているのは、冒頭の連作「OD寿司」であろう。一連全部に「寿司」が詠み込まれた恐るべき一連だ。

寿司ですよ今はカミキリムシですが(p.7)
良い寿司は関節がよく曲がるんだ(p.9)
寿司と見紛うほどの夕映え(p.12)

「OD寿司」において、「寿司」はあらゆる文脈や言葉に衝突していく。「寿司」概念の乱反射である。「寿司」と出会うはずのなかった言葉達は、不意に「寿司」との遭遇を迫られる。寿司ネタの多様性はその乱反射を許容してくれるほどおおらかだ。

眠れない夜は民族大移動

(暮田真名Instagramより)

最後にこの句を引用したい。暮田はこの句を『ふりょの星』に収録していない。しかし私にとっては、暮田の川柳に惹かれるきっかけとなった句である。句集を読むといつもこの句を思い出してしまう。『ふりょの星』では、私たちが普段使っている言葉が、思わぬところに大移動してくるのだから。


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