津軽てる『秋・現実』評:ロボットの乳房

モダニズム歌集評第2回
底本:津軽てる『秋・現実』(表現社、一九三二)

津軽てる(または津軽照子)は、モダニズム短歌の系譜をひく児山敬一主宰の『短歌表現』に所属していた歌人です。もとは前川佐美雄や児山敬一と同じく竹柏会『心の花』に所属していました。児山は1930年当時、新芸術派歌人倶楽部に属し、佐美雄らと歩みをともにしていましたが、のちに自由律へ転身し、『短歌表現』のメンバーもそれに従います。『秋・現実』は自由律転身後の、津軽にとっては二冊目の歌集です。一冊目の歌集『野の道』は竹柏会の伝統に即した保守的なものでした。『秋・現実』は逆編年体で歌集が構成されており、古い時代の歌は定型ですが、しかし二行書きに改められています。なお、この歌集のみ「津軽てる」名義であり、その後の著作では「津軽照子」を用いています。
今回の歌集評では定型の時期・自由律の時期を区分せず、テーマごとに短歌を引きました。

****

津軽てるは女性というテーマをうまく扱っているモダニズム期の歌人である。同時期の男性歌人に見られるような露悪的なエロスの発露がなく(例えば上田穆『街の放射線』はひどい)、比較的安心して読むことができる。小玉朝子は『黄薔薇』で幼さを描いていた。齋藤史は『魚歌』で少女期や若妻を描いている。津軽の歌は、成人した女性である。

冬の花嫁の花嫁
ただ偶然に 衣裳の菊であつた

ひるの月かげ 嫁(ゆ)く人の
見られねばならぬかほを粧へ

歌集巻頭の二首。逆編年体のためこれらは自由律の時期のものである。嫁ぎゆくひとを描いた歌であろう。一首目はおそらく菊をそのように喩えていると考えられるが、「花嫁の花嫁」という言い方は花嫁二人による婚礼を連想させる。植物と人との間に対等な愛は成り立つのだろうか。愛は常に不均衡だというテーゼはここでは考えないことにする。
二首目「月かげ」の歌は、自由律の時期のものとはいえ短歌に慣れ親しんだ目には初句欠落に見えてしまう。注目されない月かげと参列者の視線を一身に集める花嫁の対比である。欠けた部分が昼の月の見えない部分を暗示しているように見えてならない。

うすい波がさらさらゆれあげて
赤い傘のしたに 赤ちやんをおいた

童(こ)が栗を掌(て)にいつぱいにうりにきて
銅貨で拂つた

子が登場する歌を引いた。赤い傘は「赤ちやん」を庇護するには心許ない。「うすい波」とはいえ波に攫われてしまいそうだ。連作を読んでも預かっている子なのか自分の子なのかわからない。海に赤子が登場するだけであるが、歌には不思議な緊張感が満ちている。
続く歌は、タヌキやキツネが化けた童であっても構わないようなお伽話性を帯びている。両手いっぱいに栗を運びくる様子ではないだろう。代価を受け取れないのだから。片手いっぱいで童が持てる量の栗はたかが知れている。せいぜい二、三個だろう。しかし、「掌いつぱい」と言われると、それより多い数を想像してしまう。津軽の渡す対価もお伽話的だ。銭ではなく、銅貨である。今も十円玉が銅貨であるように、当時の銅貨は一銭玉と考えられる。一銭玉では台無しだ。

椅子に來てきのふのとほりポーズする
ロボツトの胸に乳房がある

ロボツトにやはらかすぎる乳房があり
居すわるまでは眼(まなこ)をそらす

小玉にはこうしたSF的な歌もある。どちらも定型の時期のものだ。女性型ロボットの宿命は今も昔も変わらないようだ。そもそも人型ロボットが何もしなければ男性ジェンダーを纏ってしまうことにことの発端があるのだが、そうした根深いジェンダーの問題はひとまず置いておこう。津軽が描いているのはロボットに「乳房」があること、それだけだ。この居心地の悪さはなんだろう。私たちは「眼をそらす」しかない。ロボットに「やはらかすぎる乳房」などを付けた人間に対する皮肉が効いている。

かすか メカニクのおと磯波の
くづれる底にうごきつづける

砂にひろふ貝殻 二つあへば
虹のかげをいれようとおもふ

飛行機 青波の底へとばしたい と少年は念ずる
ゆふぞらのよごれ

ロボットに関連して、メカニクmechanicを読み込んだこのような歌もある。海とメカニックの取り合わせがおもしろい。これらの海の歌では、先の赤子の歌のように、海が現実的な脅威ではなく、きわめて身近な異界として機能している。海の底で動き続ける機械整備の音は、浜辺でどのように聞こえるのか。
飛行機の歌については、1930年代が水上飛行艇の黄金時代だったことを思い出したい。水上機が活躍するジブリのアニメ映画『紅の豚』も、設定上はこの歌集と同時代である。そうした「飛行機」が海の中を飛んでいく景は壮観だ。夕暮れ時である。「青波」の色はますます濃く、翼の灯りが海面まで透けて見えるであろう。その上空に付けられた汚れは、観念的なものとしてしか想像できないが、上の句とのコントラストがおもしろい。

麥のあをの土のなかに
深く ひとを葬る

この家に生きてゐるもの一つづつ
かぞへて闇はうすくならぬか

夜の歌といえば、このようなものがある。梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と叫ぶが、津軽は麦畑のなかに人を葬る。いや、畑ではないかもしれないが、人を葬っている。ポイントは収穫期の色づいた麦ではないことだろう。収穫期ではすぐに掘り返されてしまう。
次の歌は闇を恐れている。家の中には無数の生き物が蠢いている。我が家にはハエトリグモの親子などがいた。それらを一つづつ数えても、夜の深さは変わるはずもなく、むしろ、生物に光を見出していなければこのような考え方にはならないだろう。生物に不思議な力があるかもしれないと想定してしまう心遣いは、ややスピリチュアリズムに近い。

郵便配達夫(いうびんや)のうしろを霧が追つてゆく
記憶はひらかず

眞白なけふの地球はふくれあがり
いともしづかに𢌞轉する

いふことも きくことも みんな花ばかり
のどいつぱいに空氣がつまる

郵便配達夫の歌は歌集の白眉だ。郵便物は手元に届いたら開かれる。しかし、郵便物を手元に届ける配達夫は、決してそれを開かない。そこに書かれた記憶も、決して開くことはない。郵便は謎を運んでいるのだ。津軽はこれを見逃さない。謎は霧である。郵便屋は霧を引き連れて町々を回っている。
二首目の地球の歌は、垂直方向の広がりが球になり、水平方向の広がりが時間となっている。地球の回転とは即ち時間である。
最後の歌は定型の時代のものだ。ここではみんなが花を吐いているのだろうか。みんなが花の話をしているだけならば、主体は窒息してしまいそうになることもないだろう。仮にこれが話をしているだけの歌ならば、花を女の喩として、女の話ばかりしている「みんな」への皮肉のように受け取りたくなる。それほどに主体は居心地が悪そうだ。
関連する歌を引いていたら、花嫁の歌から遠くまで来てしまった。

津軽の歌集は以下のリンクから読むことができる。ただし、利用には国会図書館への情報登録が必要であることに注意されたい。
津軽てる『秋・現実』:国立国会図書館個人送信サービス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?