歌集評② 𠮷田恭大『光と私語』

2020年第一回BR賞で予選通過したブックレビューを公開します。『現代短歌』2020年11月号誌上では誤って本名が記載されてしまっています。一部の引用歌はパソコンで表示しないとレイアウトが崩れてしまいます。以下、本文です。

 「テーマパークとしての歌集」
 髙良真実
 𠮷田恭大の『光と私語』(いぬのせなか座,2019)は語ることが難しい歌集だ。その難しさは歌集の形式に由来する。歌集の第一章・第三章は短歌が一頁一首で印字されており、短歌が縦書き一行で印字される点で、通常の歌集と大差ない。しかしながら第二章に関しては、通常の歌集とは異なるレイアウトが採用されている。実例を見てみたい。

1 花曇り あなたが
     山羊に餌をやる様を
 いつまでも覚えているだろう

 引用1首目は、歌集上ではページの右端から2cm離して印字されており、さらに「花曇り あながた」の直下に縦5.5cm、横2.5cmの焦げ茶色の長方形が配置されている。ちょうどこの歌が長方形に引っかかっているように見えるレイアウトである。この形式を無視して縦書き一行で歌を引用してしまうと、歌に関する重要な情報を削ぎ落してしまうのではないか、という不安に駆られる。
 もちろん、第二章をいったん無視して、第一章と第三章を基にこれまでの歌集評のプロトコル、即ち歌集を通して歌人について語り、歌人の試みを探る方法に従うことも可能である。しかし、それではどこか片手落ちな気がしてしまう。
 ところで、この形式は誰の意図が働いているものと考えればよいのだろうか? デザインとレイアウトについては「いぬのせなか座」が参加していることが知られている。2019年6月16日の本屋B&Bにおけるトークイベントでの𠮷田恭大の発言によると、レイアウトについてはいぬのせなか座に一任したらしい。ただし、可読性は確保してほしいとの要望は出したとのことである。従って、これを共同製作者としてのいぬのせなか座の意図として捉えるのか、それとも最終的に作者が裁可を下した点を重視して、包括的に作者の意図と捉えるのか、どちらがよいのだろう。いや、そもそも『光と私語』の歌集評においては、歌人について語ることが悪手であると考えたほうがいいのかもしれない。この形式の採用には、これまでの歌集評のあり方に揺さぶりをかける効果があると考えて良いだろう。
 では、この歌集の評はどのような形であるべきなのだろうか。おそらく、あたかもテーマパークのアトラクションを解説するかのように、歌集の楽しみ方について語らなければならない。なお、本稿ではあえて歌集の第二章に絞って語りたい。というのも、歌集全体についてはすでに歌集の栞という形で堂園昌彦と荻原裕幸が評を寄せているからだ。本稿はあくまで先行する歌集評を補完する立場にある。
 さて、ここからは第二章の構成をみていきたい。第二章は「大きい魚、小さい魚、段ボール」、「ト」、「されど雑司ヶ谷」、「末恒、宝木、浜村、青谷」、「象亀の甲羅を磨く」の五つの連作から構成されている。はじめの連作「大きい魚、小さい魚、段ボール」は、世界観の導入である。即ち第一に形式の導入、第二に都市的空気感、何が起こってもそういうものとして受け入れなければならない空気感の導入である。

2                   「それはアートですか?」
「犬山城のプラモデルです」「またはそういうパントマイムです」

 形式については引用1首目で触れたとおりである。都市的空気については、引用2首目が好例である。「犬山城のプラモデル」は何らかのモノであるのに対して、「パントマイム」は一般に人によって行われる。この二者が「または」で繋げられていることで、読者は結局「それはアートですか?」と名指されている存在の正体を想像することが困難になる。しかしながら、歌はそれ以上の返答をしないため、読者はこの歌を意味がとれないまま受け入れなければならない。都市生活の経験者であれば、一度は理解することができない存在に遭遇したことがあるはずだ。引用2首目はこうした空気感を象徴しているように思えてならない。
 続く連作「ト」は、ト書きの働きを持つ短歌だけで構成されている。

3 部屋を出てどこかへ向かう。戻るとき牛乳のコップを持っている。

 引用3首目では作中主体の動作しか示されていない。さらに一頁十一首組という形式、そして句読点の使用が散文めいた印象を与える。この形式は、登場人物の台詞が欠けている点で、脚本の形式としても異様である。本稿ではこの形式について語る紙幅が不足しているものの、少なくとも、ト書きの機能を持つ短歌が連作中に含まれていることのヒントとして、第二章においては重要な位置を占めているということができる。
 そして「されど雑司ヶ谷」では、先の二つの連作で示された機能を活用して、赤い老人=サンタクロースをテーマとした老いに関する一連が展開される。この連作こそ、形式面でも内容面でも第二章の中核を成す。

4 この暮れも寒い
          都電の車内には老人ばかり目についている
5 欲望と無縁の電車を待ちながら、ホームで抱いていた濡れた犬
6 その犬とそのトナカイを手放して、わたしが死んだら橇に乗せてよ

 生活の点描と、生活の延長としての死というテーマは先の二つの連作の中でも示されていたが、この連作においては老人へのまなざしが加わることによって、主体は次第に自分自身の老いについても考えるようになる。引用4首目から6首目にかけては、「電車」や「犬」といったモチーフを飛び石のように経由しながら、外に向けたまなざしが次第に自分自身へ再帰的に照射される過程が示されている。この思考の流れは、ポスト近代的な都市空間の空気に触発されたものと読むことができよう。
四番目の連作「末恒、宝木、浜村、青谷」では、老いのテーマを引き継ぎ、故郷に関する連作に移る。故郷という概念には常に誕生と死別が張り付いている。また、見開きの左下側に配置された地名の羅列は、おおよそ下の句のリズムと重なり、電車に乗っている感覚を想起させる。これは実際にJR山陰本線の駅名の抜粋でもある。
最後の連作「象亀の甲羅を磨く」では、見開きの左頁中央に一首を配置することにより、電車の速度感を引き継いでいる。歌の数が少ないほど頁をめくる速度は速くなる故に、この加速感は生まれているのだろう。クライマックスを飾るにふさわしい連作である。
 堂園は歌集の栞のなかで『光と私語』を「都市そのものである歌集」と評したが、第二章は都市を模したテーマパークとして、様々な仕掛けのなかで読者が遊ぶことができるように設計されているのだろう。本稿が示した読み筋はあくまで一例でしかない。しかし、この歌集は、戯画化された都市空間を逍遙する楽しみを、読者へ提供しているのだと思う。


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