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早崎夏衛『白彩』評:文明論の憂鬱

モダニズム歌集評第6回
底本:早崎夏衛『白彩』(短歌精神詩房、一九三六)

早崎夏衛は竹柏会『心の花』に所属していた歌人で、一九三〇年には心の花内部の組織である「新芸術派短歌研究会」に、前川佐美雄、児山敬一、三宅史平の三人と一緒に参加していました。その後は前川に従い『短歌作品』、『カメレオン』、『日本歌人』にも参加しますが、一九三五年には盟友の岡松雄(おかまつ・たけし)とともに同誌を離れ、加藤克巳を加えて独自に『短歌精神』を創刊、新芸術派の運動を推進しました。
『短歌精神』は一九三五年から一九三八年まで定期的に刊行されたのち、三八年四月の通巻第三〇・三一合併号をきっかけに休刊、一九四一年五月に通巻第三二号が出て、その後の刊行は確認されていません。
『短歌精神』には『白彩』の批評がしばらく数人ずつ執筆者を変えて連載されています。総目次は『短歌精神』三巻四号(昭和一二年五月号)の三二頁で確認可能です。これは閲覧できる機会が限られているため、参考までに以下に翻刻した総目次を掲載します。

【歌集白彩批判総目次】
矢嶋歓一氏…………第2巻第10号18頁
春山行夫氏…………〃   〃  21頁
中田忠夫氏…………〃   〃  22頁
児山敬一氏…………〃   〃  23頁
葉山耕三郎氏………第2巻第11号 7頁
原 勝正氏…………〃   〃   8頁
北園克衛氏…………〃   〃   9頁
川口汪一郎氏………〃   〃   9頁
藤井千鶴子氏………〃   〃  10頁
木村捨録氏…………〃   〃  11頁
高橋俊人氏…………第2巻第12号12頁
小林芳之氏…………〃   〃  14頁
広江ミチ子氏………〃   〃  17頁
河村安衛氏…………〃   〃  17頁
田中真一氏…………〃   〃  19頁
常見千香夫氏………第3巻 第1号11頁
島田忠夫氏…………〃   〃  14頁
坂本小金氏…………〃   〃  15頁
小笠原文夫氏………〃   〃  16頁
東郷久義氏…………〃   〃  17頁
中野嘉一氏…………第3巻 第2号 8頁
常見千香夫氏………〃   〃   9頁
梅田 正氏…………〃   〃  10頁
岡松 雄氏…………〃   〃  12頁
本多顕彰氏…………第3巻 第3号13頁

また、『白彩』批評が連載されている一九三七年頃の『短歌精神』には、早崎夏衛第二歌集『緑の菌(みどりのきのこ)』の刊行が予告されています。しかしながら、第二歌集の刊行は現在まで確認されていません。
なお『短歌精神』の実物は、加藤克巳旧蔵資料を所蔵する埼玉文学館にて閲覧可能です。実物を手に取ると、雑誌に注がれた熱意がおよそ九〇年後の私達にも伝わってきます。早崎らの活動が一九三八年以降に続かなかったことが悔やまれます。

****歌集評ここから****

早崎夏衛『白彩』では、芸術的なものを愛するナーバスな主体像が描かれている。彼はしきりに「園」を訪れる。これまで見てきたような他の新芸術派歌人たちと違い、早崎はあまり野原へ出掛けることはない。代わりに、こうしたところで都会とは異なる自然を見つけているのである。それは人工的な自然で、都会の外にある自然とは異なると指摘しても仕方がない。里山とて管理された自然なのだから。閑話休題、実際の歌を見てみよう。

望遠レンズにうつる花園からすばらしい楽典がけさ生れんとする
うつくしい人間たちのおこなひはわが知らぬ園に花咲かせゐる
Ink Eradicator(いんくけし)で消(け)のこされしやうな人ばかりうろついてゐる公園をとほる
喧嘩してわかれた友の奇妙なる鼻のかたちをスケツチにする

一首目は初句が七音、二句目が「うつる花園から」と九音となっており少し読みにくいが、その部分以外は定型で読める。興味深いのは、この歌の主体が実際に花園の中にいないことだ。外からまなざすだけでも、憂鬱な都会を離れた聖域を花園に見出すことができるのである。更に進んで、二首目では想像の領域に理想的な「園」を描いている。
ただし現実の「公園」はそのような理想とはかけ離れているようだ。ふるさとは遠きにありて思うもの(犀星「小景異情」)、そのように「園」は離れ見るべきものなのかもしれない。Ink Eradicatorに「いんくけし」とルビを振る点は力業だが、この比喩はへんてこりんに描き落とされてしまったキュビズム的人間がそのあたりをうろうろしているような景を想起させる点で、かなりおもしろい。
どうやら、人間を戯画化することは早崎のくせになってるようで、四首目では友の鼻が奇妙な形になっている。なっている、というのは、奇妙だと描くことによって私たち読者の側が奇妙な鼻を思い浮かべてしまうからだ。言語による描写にはそのような作用がある。ちょうど、世界三大美人の復元図が時代の好みを反映して当世一大の美女に似せられるようなものである。
さて、ここまでのところで、読者はこの早崎という男の描く主体が相当に風変わりであることに気づいたのではないだろうか。次のような歌もある。

僕のものの強い力が信じがたくこの脳天を街頭にぶつける
街頭の石にぶつつけつぶれたるこの脳天をおもひ怖びゆる
みづからを沼藻の底に蹴おとしてひとに見せしは幾度(いくたび)ならむ
どこをむいてもわがいちまいの影ありて鏡底のやうにつめたかりけり

どうしてここまで自分のことを疑うのか。脳天を街頭(あたまだけに?)にぶつけようと思ったり、引用二首目は歌集でも隣の歌だが、結局はぶつけてひしゃげた頭を思い描いてそれを怖れるにとどまってしまう。三首目は自罰的だが、肝腎の、どうしてその光景を人に見せようとしているのかが明かされていない。
四首目はおそらく夜の街灯(街頭ではなく)に照らされている景であろう。四方八方から照らされて、どこをむても自分の影を見つけてしまうのは都市部の夜で経験されるものである。そう、早崎は都市における人間をずっと疑っているのだ。
おもしろいのは歌集後半に収録されている「逆」という連作である。

七階からのぞけば逆さのにんげんがしみじみきたない生きものであり
逆さまの人間らうごく地上までのこの距離をこそここにおそるる
ふしぎなる逆さの街の幻影はひるまにわれをきちがひにする

きっと現代人は高所のおそろしさに対して感覚が麻痺しているのだ。七階程度の高さを強意の係助詞「こそ」を使いつつ(係り結びが対応していないのはさておき)「ここにおそるる」と強調する早崎を、私達は笑ってしまうかもしれない。しかし、早崎は上から見下ろす街の風景を「街の幻影」だとたたみかける。高さは人を異界に連れ出すのだ。高層建築があふれた現代日本で、この歌は文明批判としても解釈できるのではないだろうか。
そうした街の幻影の巷に、早崎は次のような幻影を見出している。

まなぶたをうらがへされて待避路線に億兆のゆめをわれは追ひゐし
プラットホームの光圏のなか石畳をぐるりと旋(まは)る影法師あり

待避路線、プラットホームはともに鉄道の言葉だ。そして鉄道は近代文明が生み出した偉大なる交通メディアである。高層建築と同じように、鉄道での旅は周囲の空間から隔絶された異界に入り込むものだ。鉄道での通勤になれきっていると気づかないことだ。例えば、新宿から池袋の間には住宅街がひろがっているが(新宿と池袋は少し離れた任意の二つの繁華街に置き換え可能)、電車に乗っている限り、その間にある風景を私たちは徒歩と同じようには経験できない。その異界に「億兆の夢」や奇妙な「影法師」は住まうのである。

早崎の歌集はこれまで紹介した歌集の中で最も都会的といえるかもしれない。だからこそ、九〇年前の東京に住み、都市化の波にもまれていた彼の歌集は、再開発を通して空間の書き換えが進む現代において読み返すに最もふさわしいのである。

早崎の歌集は以下のリンクから読むことができる。ただし、利用には国会図書館への情報登録が必要であることに注意されたい。
早崎夏衛『白彩』:国立国会図書館個人送信サービス


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