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けものの短歌

『ねむらない樹』vol.11誌上で発表された第6回笹井宏之賞の結果を読みました。傾向変わりましたね。気になったのはこの歌です。

自我は持つよりも飼うだな、と言ってた友だちにちゃんとついている四肢
-白野「名札の裏」

『ねむらない樹』vol.11(2024)

韻律がやや難しくて、私は「自我は持つ/よりも飼うだな、/と言ってた」と句切りました。あるいは3句目4音にする切り方もあります。韻律と意味内容を過度に近づける読みは警戒されますけれども、人外っぽいイメージを連れてくる歌の韻律がガタガタだと、少しうれしい気持ちがあるのを自覚します。

ところでこの歌を見て、けものの短歌のことを考えたりしました。50年代ごろの歌集に「けもの」をモチーフにしつつ人間を詠む歌がちらほら見えて、私はそれを勝手に“けもの歌”と呼んでいます。君はけもの歌のフレンズなんだね。こうした野生の感覚が、大賞受賞連作の魅力なんだと思います。

今回は手元の短歌ファイルからけもの歌を引いて、それについて書きます。

うるむ眼をときにあげて視るわれのけものしなやかに睡(ねむ)き四肢を持つゆゑ
-齋藤史『うたのゆくへ』(一九五三)

『現代短歌全集』第十二巻収録

白野さんの歌から真っ先に想起したのは齋藤史(さいとうふみ)の掲出歌です。自分自身の身体を「われのけもの」と表現している点がおもしろい。冒頭引用歌の「持つよりも飼う」と同様の客体化ですね。「眼をときにあげ」るのもきっと自分なんでしょう。こうした自己の客体化は前川佐美雄『植物祭』で見られる技法としてしばしば語られます。齋藤史も前川より少し年下の同時代人でら戦前に登場したモダニズム歌人の一人です。

戦前の歌集には、以下のようなけもの歌を見ることができます。

しなやかな若いけものを馭しゆけり蹄にかかり花は散るもの
-齋藤史『魚歌』(一九四〇)

『現代短歌全集』第八巻収録

「花は散るもの」は、“……は○○なものである”といったこの世の摂理として読むのが正しいような気はしつつ、“散るんだもの”といった、理由を現す口語の終助詞的な用法の読みも排除できないと思っています。どういう語調で言っているんでしょう。馬を馭しているようにも見えますし、自分自身を馬のようなものに喩えている可能性もあります。

『うたのゆくへ』は1953年の歌集で、その以後くらいから、けもの歌はその数を増やすように思います。いくつか刊行年順に引いてみます。

捌かるる鞭なきわれのけだものはしらじらとして月光にとぶ
-中城ふみ子『乳房喪失』(一九五四)

『現代短歌全集』第十二巻収録

中城の歌ではおそらく自分自身の自我のようなものが「われのけだもの」と表現されているように思います。鞭打たれることのない「けだもの」は自由の象徴です。それが「月光にとぶ」とやや幻想的に描かれると、自分自身の受難を暗示するものとして読みたくなります。実際は犬が「跳ぶ」だけかもしれませんが、飼い犬の筋で読んでも「しらじら」が皮肉に見えて、やはりこっちは苦労してるんだ、という情感が隠れているように読めます。

セツクスのにほはぬ身体獣めきてわが傍らの湯に沈む老女
-三国玲子『空を指す枝』(一九五四)

『現代短歌全集』第十二巻収録

三国の歌は、はじめ逆ではないかと思いました。けれどもよく考えると、家畜の獣は幻覚に人間に生殖を管理されています。現代には会社の家畜、つづめて社畜という語があります。「獣めきて」というのも、そうした生殖と隷属のニュアンスを引用してきた言葉かもしれません。

追ひつめてほしき命と思はねばしなやかに赫きけもの逃がしつ
-安永蕗子『魚愁』(一九六二)

『現代短歌全集』第十四巻収録

安永の歌は先に引いた齋藤史の歌と共通して「しなやか」という語が使われています。しかしこの副詞はどこにかかるんでしょう。獣のしなやかさをイメージさせつつ、文のつながりを考えれば候補になるのは「赫き」か「逃しつ」のどちらかですが、どちらにせよ、ししなやかに赫いとか、しなかやに逃すとなり、一般的な語の接続からは外れています。こうした副詞の修飾の浮き方は意味の定まらなさ、やわらかさを連想させ、したたかな主体像を思い浮かべてしまうところがあります。私は好きですが、そこまで好意的に読めない人もいるかもしれません。

森のやうに獣のやうにわれは生く群青の空耳研ぐばかり
-河野裕子『森のやうに獣のやうに』(一九七二)

砂子屋書房『河野裕子歌集』収録

河野裕子の歌はタイトルにもなっているので有名ですね。結句「耳研ぐばかり」は犬猫の尖った耳や針葉樹林の刺々しい形を連想させます。ここの「森のやうに」は里山ではなく深山でしょう。神秘的で、力強い。上句の直喩は下句の暗喩に支えられています。内省的で抑えめの歌を読んだあとにこうした鼓舞するような歌を読むと、シンプルに良いなと思います。

他にもけもの歌はありますが、今夜はこの辺にしておきます。対象としての獣も、自我の喩としての獣も、最近あんまり見なくなったような気がします。都市に住んでいると獣といえば愛玩動物か、さもなくば檻の中にいるのを眺めるくらいになりました。喩としてリアリティを確保するのが難しいと思っていましたが、今年の笹井賞では、けもの歌のスピリッツを感じられる短歌が読めたことをうれしく思っています。

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