見出し画像

My profile

とんでもなく方向音痴です。それは、ほんの少し長くお付き合いした方は、誰だって知っています。「え?若い頃は添乗員してたんでしょ?」「出張ばっかりのようだけど大丈夫?」なんて心配されます。

3度、4度行ったことのある場所でも、まっすぐにたどりつくことができません。地下鉄なんて最悪。階段をいくつも上がるから、地上に出たときにどちらを向いているかがさっぱりわかりません。えっ、右?左?

スマホのマップなんて、まったく役に立ちません。だって、回すと画面もまわるから。だから、方角を知るために、地上に出るとまず、時計を見て太陽を探します。それからスマホを見て、自分の位置と進むべき方向を確かめます。(スマホが出る前までは、方位磁石を持ち歩いていました・・・)

さて、なんの話をしたいかというと、そんな僕でも、自分の道を見定めて、迷いながらも行きたいところにたどり着ける。方向音痴で、道に迷う度に落ち込むけど、最終的にはカタチになる。

ちなみに、いまの僕の肩書は・・・

コンサルティング会社のコンサルタント。介護施設、保育園、障害サービス事業を運営する会社の経営者。3世代が集う“まちのカフェレストラン”のオーナー。お年寄りの旅行をサポートする協会の代表理事。

大事なのは、自分の過去を大事にすること。仲間を大切にすること。すぐ動くこと。自分の想いを発信すること。カタチになるまであがくこと。

ここで発信することに「正解」も「不正解」もない。そのときの想い、価値観や、その時点でできたやり方です。

さて、まずは僕のこれまでを話しましょうか。

大学時代、僕の人生を変えた2つのできごと

大学は明治大学政経学部経済学科。別に、経済を学びたくて入ったわけじゃない。1971年生まれで、第二次ベビーブームの最初の年だから、大学に入るのも超ハード。浪人して予備校に毎日通って、模擬テストの偏差値で選んだ大学がここでした。

当時の明治は変な学校で、学生運動がなぜか活発。(世間ではとっくに終わっていました)1年生のときの期末試験は、運動家らがバリストやらハンストなんかをしたもんだから、中止になってレポート提出ということになった。

授業もでっかい教室で、先生がボソボソと話すからまったく聞こえず。テストは教科書やノート持ち込みOKだから、まったく勉強しませんでした。

特に政経学部は、単位を取るのが楽だから「パラダイス政経」なんて呼ばれてたね。(勉強しておけばよかった。今になってその価値を感じます)

そんな学生時代、がんばったのは2つだけ。1つはディズニーランドのバイト。そしてもう1つは、日本を、世界を旅して走ること。歩くことでした。

ディズニーランドでの衝撃的な体験

大学時代、最初で最後のバイトはディズニーランドのキャスト。なにせ、入学直後から卒業する直前まで続けたから。

千葉県民の僕には、当時の時給1000円は魅力的だし、バイトなのに有休もボーナスもあるし、なにしろ夢の国だし、いいことばかりでした。週に2〜3回は通って働きまくって、週に1〜2回はディズニー仲間と浦安で、浴びるほど飲んでいました。(お酒が強くなったのはディズニーのおかげ・・・)

しかし、仕事は厳しかったです。プラザパビリオン・レストランというロケーションに配属されましたが、初日の教育研修から「え?バイトにこんなに厳しく指導する?」「10代の俺にこんなことできるかな?」と驚きの連続でした。

そして現場でも、ひっきりなしに訪れるゲストを笑顔で迎え、テキパキとすごい仕事量をこなし(こんなに忙しいレストラン、世界中さがしてもそうないでしょ)、同じサービス品質でまた次のゲストをお迎えする。しかも、一緒に働いていた同僚の8割、いや9割は学生です。

よくやっていたな。

それに、裏方の仕組みなんかもすごくて、何しろ1日に数千人のキャストが働く場所だから、休憩する食堂や、ユニフォームを洗うクリーニングセンターだけでもすごい!

しかも“バイトが9割”という本に嘘はなく、バイトの僕らがいろんなことを任されて、いろんなことを決めていました。今考えると、教育、サービス品質向上、生産性向上、定着、やりがい向上のための仕組み、仕掛けが盛りだくさんで、いまだに、あのときの衝撃的な記憶をもとにコンサルティングし、経営に生かしている自分がいます。

ディズニーは最高の経営の教科書だ!そう言い切れます!

ディズニー流

その結果、こんな本まで書いてしまいました。当時はAmazonでジャンル1位獲得!すべて介護現場で実践したディズニー流の事例です。(もう絶版だから中古でどうぞ!)

日本は広くて狭い!

週に3回もがっつりバイトして、そのお金で何をしていたかというと、バイクツーリングと、バックパックを背負っての海外旅行。特に長かったのは、大学2年の夏にいった日本一周。

バイクにテント、シュラフを乗せて、千葉から太平洋沿岸を南へ進み、今度は日本海側をたどって北海道まで。海はフェリーをつかって、約1ヶ月かけてぐるっとひとまわり。

バイク写真

感想はというと。。。

「二度とやりません。時間があってもやりません。」

何がつらいって、孤独なこと。当時はスマホどころか携帯もありませんからね。人と会話するとしたら、行った先々で出会った人々。最初は知らない土地で話しかける勇気もなくて、メットの中でブツブツ独り言していました。

しかしそのうち慣れてくると、フラッと入ったお店のおばちゃんに話しかけ、たまたま隣にテントを張った人と「度は道連れ」で一緒に走って、豪雨の中で途方に暮れていたら、優しい声をかけてくれたおじさんの家に泊めてもらって食事をごちそうになりと、まあまあ旅行記を書けるくらいの旅をしました。みんな優しいね。

そして、そこで感じたのは「日本って広いけど狭いな」ってこと。北から南まで、かなり広いし、景色も、空気も、食事も、人も、言葉も違う。海や山の色が違う。かなーり広い!

でも、バイクでまわれちゃうくらい狭い。1日50〜100kmくらいを目処に、回り道しながら全県をたどりました。トロトロ走ったから時間がかかったけど、その気になれば1週間もかからずに走れます。とっても狭い!

このときの「狭い」の感覚が、いまの出張しまくりの仕事の仕方につながっている。だって今では、飛行機でひとっ飛びだから、札幌だろうと沖縄だろうと、日帰りで仕事できる。世界を股にかけるのは大変だけど、日本くらいならできちゃいます。どこでも行っちゃいます。それは、このときのイメージがあるからこそです。

いつだって、どこの誰とだってつながれる。広い日本。でも、狭い日本。

社会人としての基本はすべてJTBで教わった!

大学を卒業して、最初の勤め先はJTBでした。当時の人気ナンバー1企業。本当は出版社に入って、本や雑誌の編集にたずさわりたかったですね。しかも政治とかそういう硬めの。でもバブル崩壊でマスコミはどこも採用ゼロ。だから、メーカー、金融など、手当り次第受けました。(約80社)

就職氷河期の時代、書類選考→入社テスト(幕張メッセの大会場)→面接4回の計6度の選考。よく入れましたね。宝くじを引いたようなもん。

そうして入ったJTBやその当時の先輩、後輩に、いまはとても感謝しています。起業してやっていけているのは、この頃の教えがあったから。本当にいろんなことを学びました。

かなり厳しくて、かなり楽な会社でした。厳しいのは、仕事の仕方。企業や自治体、組織団体に海外視察を売り込むのが仕事でしたが、ノルマがきつくて残業していると「時間かけりゃ、だれだって稼げるんだ。時間内に稼ぐから価値があるんだ!」と怒鳴られて「残業なんかやってる暇があるなら、帰って勉強しろ!」と帰されました。

他社との競合で、安売りして受注しようとすると「安売りで逃げるな!頭使って高く売ってこい!」とデスクをバンバン叩かれました。当時の予算は粗利ベースで4000万。粗利率がだいたい10%だから、売上ベースで4億円。1人で年間4億です。特養の年間収入くらいです。めっちゃしんどかったですね。

で、楽というのは、残業ゼロで、有休が100%だったこと。次に入った某コンサル会社とは天地の差がありますね。。

当時の旅行営業は、ノルマだけが与えられて、ターゲット企業の選定からネタ集め、旅行行程立案、プレゼン資料作り、値決め、クロージングまですべてが自己完結でした。海外同行も自分。場合によっては通訳も。それだけに、学ぶものは多かった。

加えて、人脈の作り方、PDCAの回し方、上司・先輩への報告・相談の仕方や外部業者の依頼の仕方まで、たくさんのことを学びました。海外も30カ国以上行かせてもらったと思います。

英語がペラペラな先輩や、大企業にプレゼンしてウン千万の仕事を受注する先輩なんかもいて、とても刺激になりました。新人時代は「大変なとこに入っちゃったな」と正直思いましたが、結果オーライ。

ただしかし、入った頃は何をしてもうまくいかず、どちらかというと落ちこぼれで、仕事さぼって海に行ったり、早上がりして飲みに行ったりしていました。配属先は札幌。オフィスからちょっと歩けば、すすきのがあります。そりゃあ飲みに行くでしょう。今となっては時効ですが、借金してまで飲み歩いていました。

でも、だんだんクライアントの企業研究して、そこにマッチした海外視察先を探し出して、プレゼン資料つくって受注し、一緒に海外事例を見て歩くなんていう仕事が面白くなって、3年目くらいは夢中になってやっていました。

それが、この頃でしょうか。

添乗2

これは偶然にもコンサルタントの後輩のおばあちゃん(建設関係の経営者です)と一緒にタヒチに行った時の写真。たまたま彼がおばあちゃんのアルバムを見ていて発見したそうです。Tシャツをインして、かなりダサいですね。。

この頃、一緒に海外に行っていたのは、仕事柄、経営者や政治家ばかり。まだ若かったのでかわいがられ、お酒をごちそうになりながら、いろんな話を聞きました。会社を起こした経緯や会社経営の難しさ、びっくりするほどの年収やその使いみち。外車に乗って高級レストランで食事して「経営者ってかっこいいなあ」と思い始めていました。(20代の経営者のイメージなんてそんなもんです)

そして何を思ったかというと「会社をつくろう!」ということ。

28才で起業失敗

28才の春、急に思い立って50万もかかる「ビジネススクール(といえるほどのものではないですが)」に通い始めたら、事業計画の作り方という講座があった。当時は「これからはシニアビジネスだ!」なんて記事が、新聞でよく取り上げられていたから、思いつきで「高齢者向け宅配弁当事業(当時はまだあまりなかった)」の計画書を週末につくってみた。

そしたら「これ、案外いけるんじゃないか?」なんて勘違いをして起業に向けてまっしぐら。もう止まりません。

借金するほど飲んでたくらいですから、貯金はゼロ。ビジネススクールもローンです。創業資金なんてありません。これはもう借りるしかない!だから銀行に行くことにしました。

いきなり紹介もなく銀行に行って「800万貸してほしい」というと、おじさんの銀行マンが出てきました。事業の説明なんかはまったく聞いてもらえず、のっけから「自己資金ないんでしょ?担保もないよね?ご実家は持ち家?そこを担保にできるなら貸せるかもしれないですよ」の一言。

「こんなに市場性があるんです!」「これくらい儲かるんです!」「絶対に返せます!」といっても「担保は?」「保証人は?」の一点張り。そして最終的にどうなったかというと、親父をつれて行って一緒に説明を聞き「保証人になって」とお願いをしました。

親父は心配しながらも、熱意に負けて「いいよ」とはいってくれたのですが、よくよく考えて「“思いつき”で親を振り回すのは違う」とおもって断念しました。

まあ、失敗ですね。今思えば、とんでもなく稚拙な事業計画でした。きっと潰れていたでしょう。。

そんなことがあったから「経営を知りたい!」と、JTBを卒業してコンサルティング会社の門を叩いたのです。

超ブラックな大手コンサルティング会社時代

忘れもしない入社初日。会社に着くまでの道中は「今日は教育研修かな?」「歓迎会があるかもしれないぞ?」なんて勝手にドキドキしていました。でも、会社に着いたら7人のチームのはずが、いるのは先輩1人だけ。他は全員出張。(しかも、1週間以上会えませんでした)

その先輩は挨拶もそこそこに、電話帳みたいな企業リストを2冊デスクにバンと置いて「これ、明後日までにエクセルでリスト化しといて!」といって出かけようとしました。

「え?ちょっとまってください!これどう頑張っても今日中にはできませんよ?」「それに明日は土曜日ですし、仮に平日だとしても終わらないと思います」と抵抗したら、「土曜日?休むつもりなの?」「1日は24時間もあるでしょ?」「明後日まで72時間あるよ。十分でしょう」いう回答。

つまり、土日はもちろん、徹夜してでもやれというメッセージです。

そして、ポツンと1人残されて2晩徹夜。しかも、リストをつくるだけの単純作業。かっこいいコンサルタントのイメージとは、かけ離れています。「あー、やっちゃったな」「会社選び間違えたな」と思いました。

近くにいる別のチームの先輩に、意識もうろうの状態で「入社前にこんな会社だって気づいていたら、入らなかったですよ」とグチをこぼしたら「君にマーケティング力がなかったという証拠だろ。だから、うちで勉強した方がいいんだよ。がんばれ!」と言われ、妙に納得した記憶があります。

それから11年間、残業代は1円ももらったことはありません。月の休みも2日か3日。有休どころか代休すらとれないので、途中から数えなくなりました。超ブラックでした。(今は改善されたそうなので、時効でしょう。。)

しかし、半年もするとその生活にも慣れ、仕事の面白みもわかってきて、できることも増えてきました。コンサルティングの仕方などは、まったくといって良いほど教えてはもらえませんでしたが、まわりにはテレビに出たり、ベストセラーの本をバンバン出しているすごい人ばかり。そうした方々のセミナーを手伝ったり、一緒に出張したり、プロジェクトで資料作りをするだけでも、垂涎のノウハウがどっさり手に入りました。

「会社は、お金をもらいながら勉強するところだ」という言葉がありますが、まさにその言葉がぴったりの会社だったと思います。

「定年までいよう」なんていう同僚は0%。みんな「いつかは一旗上げてやる」と虎視眈々とねらっていました。今では、そうした仲間がみんな起業し、いろんな業界で大活躍しています。何にも代えがたい仲間です。

そして、その頃の写真がこれ。

コンサルタント

なんか、すかしてますねー。恥ずかしい。。

いろんなニュース番組や、ガイアの夜明けなんかにも出演させてもらいました。大きな部署の責任者もやらせてもらって、本当に密度の濃い11年だったと思います。当時の会社や仲間たちには、感謝しかありません。一生の仲間を得ることができました。

なぜ、介護コンサルタントをはじめたのか?

当時の船井総研は(会社名言っちゃった・・)、「業界の第一人者になれ」という指導方針でした。入社当初は、先輩について修行し、いずれは先輩の誰も手を付けていないまっさらな業界を、自分で開拓することを求められました。

そこで選んだのが介護業界。選んだ理由は3つある。1つ目は、起業しようとしていたのが「高齢者ビジネス」だったこと。2つ目は、この会社に入ったのが介護保険法施行当初で、まだ誰も手を付けていなかったこと。3つ目は、僕の個人的な体験です。

当時、僕の祖父はまだ生きていて、静岡で祖母と2人で暮らしていました。ある日、椅子から立ち上がるときに転倒骨折。救急車で運ばれて、1週間入院しました。たった1週間でしたが、筋力が急激に低下し、骨折の影響もあってか歩けなくなりました。

それからさらに1週間後、退院をせまられてやむなくある介護施設に入所。その後、自宅に1度も帰ることなく、3年後に亡くなりました。

2回、お見舞いに行ったけど、それがまたひどかった。ベッドから降りるのはシャワーのときだけ。あとはずっと寝たきりです。なぜか、背もたれを起こすことも禁止されていましたから、ずっと天井を見て過ごしていました。

何もせずに1日中、真っ白い天井ばかり見ていたら、誰だっておかしくなります。認知症が進行し、身体機能も急激に低下し、すぐにしゃべらなくなりました。嚥下機能も低下して、1年後には経管栄養となりました。ただ生きているだけの3年間。ひどかったです。

介護業界、これじゃいけない!介護業界のコンサルタントになろう!

そう思った瞬間でした。

しかし、会社で「介護をやる!」といったときの上司、先輩、同僚の反応といったらすごかった。「バカじゃないか」「やめとけ!」と、激しく反対されました。本部長にまで呼び出されて「福祉だろ?お金もってない業界だろ?コンサルティングフィーもらえないじゃないか。やめろ!」と説得されました。(それでもできちゃう、かなり自由な会社でしたが)

介護業界で最初のセミナー

業界コンサルを目指す上で、最初の難関はセミナーです。当時の会社は、業界向けセミナーをやる機会を1度だけもらうことができました。ただし、集客で失敗したらそれで終わり。もうチャンスはありません。

しかし私は、現場経験は皆無。ノウハウなんてありません。当時は介護業界に関する本はゼロに等しい。ホームページを持っている会社なんてごく一部。情報があまりにも少ないためにやったのは、介護保険制度のルールを徹底的に読み込むこと。あとは暇さえあれば近くの介護施設に電話して、見学したりヒアリングをしてまわりました。特養、訪問介護、デイサービスを徹底的に。

そこで見えてきた問題点。それは「マーケティング志向がないこと」「教育制度が整っていないこと」の2点でした。そこではじめてやったセミナーが「介護サービス 地域一番化セミナー」です。ヒアリングしてきた内容から「課題」を列挙して、他業界の事例をもとに、どうあるべきかを中心に講義することにしました。

告知は(メルマガも、ネット広告もないので)何とか仕入れた事業者リストにDMしました。コストはかけられないので、コピー機で印刷して、自分で三つ折りして、宛名を貼って封入。しかも、送り先はたったの1000社。にもかかわらず、当時は介護分野で経営的なセミナーなんかなかったから、80名もの方が参加してくれました。

このときは、嬉しかった。DMのオーダー率8%のセミナーなんて、びっくりですね。今じゃ考えられないでしょう。

では大成功だったかというと。。 終了後のアンケートは批判の嵐。「福祉は儲けちゃダメだろ。もっと勉強してからセミナーしろ!」「介護業者が営業なんかしてはいけないと思います」といった、今では笑っちゃうような意見です。。でもショックでした。1週間ほど会社にとまりこんで、必死で講義したのにね。

中には「介護業界では、社員のことを職員と呼ぶのです。そんなことも知らないんですか?」「お客さんではなく、利用者さんです。商売とは違うんです。間違えないでください」というご指摘までいただきました。今でもその風潮はありますね。

こんなクレームばかりのアンケートだったのに、なんと翌日には、8社からコンサルティングの依頼がありました。嬉しかったというよりは、正直いうと焦りました。だって、コンサルティングなんてやったことないから。

でもクライアントの前では知ったかぶりして、影で調べまくって、一生懸命にやりました。そのことは全部見透かされていて「糠谷さんが介護のことをわからなくても、それは僕が教えてあげるから、糠谷さんは経営のことをアドバイスして」とお客さんに励まされました。ありがたかったです。

「人生、無駄はないんだな」と思う

こうしてプロフィールを書いてみて思うことは「人生で経験したことは、どこかでつながっていくな」ということ。うまくいったことも、そうでなかったこともふくめて、それらはどこかでつながっていきます。無駄な経験なんてひとつもない。

単に好きだったからしていた旅が、旅行会社への入社につながって、時給が高いから働いていたディズニーでの経験が、介護事業者に対する教育プログラムの指導につながって、たまたま入った旅行会社での経験が「旅行に行けるカラダをつくる」をコンセプトにしたデイサービスの立ち上げにつながって、「旅行介助士」の資格制度につながって、本の編集をしたかったという果たせなかった想いが、20年後の本の執筆につながりました。

さらに言うと、じいちゃんの切ない経験が自分を介護業界に導いてくれました。長男が小さい頃、忙しくて遊んであげられなかった経験が、保育園の立ち上げにつながりました。当時はまだ起業したばかりで、一緒に働いていた妻も夜まで帰れず、あまり絵本を読んだり、遊んであげたりできませんでした。その体験が、いま運営している「絵本の太陽の保育園」につながっているのです。

人の面でも同じです。ディズニー時代の仲間が、ディズニー本の出版に協力してくれて、JTB時代の仲間が「旅行介助士」の資格制度立ち上げに協力してくれて、船井総研時代の仲間が、私の会社の運営をサポートをしてくれています。

コンサルタントとして出会ったクライアント経営者は、自分にとってはお客様でもあり、経営者仲間であり、師匠でもあります。

長い人生で、経験、人がどこかでつながって、広がっていくイメージ。それが私の背景にあります。

いま、一番やりたい2つのこと

今まで、介護業界を盛り上げるためにコンサルタントとして、経営者としてがんばってきました。

世の中には、とても素敵な想いを持って、素晴らしいサービスを提供している事業者がたくさんあります。それがもっともっと広がるように、経営面、マーケティング面、マネジメント面でサポートするのが僕のコンサルタントとしての仕事です。

そして、私が立ち上げた会社(「私の会社」とは言いません)に集まってきてくれた仲間と、一緒に世界を変えていくことが、経営者としての役割です。「部活のような会社をつくる」という理念のもと、一丸となって、様々なテーマにチャレンジしています。

そんな私が、いまやりたいことは2つあります。1つは「旅行に行ける未来をつくる」こと。そしてもう1つが、介護士の給料を上げることです。

旅行に行ける未来をつくる

旅行会社時代、海外企業視察以外にかかわったもう1つの大きなテーマが「シニア旅行会」を主催する仕事でした。平均年齢75才の団体を、年に1度、私が企画者兼同行者として海外にお連れしました。行った国は北欧4カ国、オーストラリア、イギリス・スコットランド、カナダ、イタリア・フランスです。

しかし、最初は50名以上いたはずなのに、年々減っていきました。辞める頃には20人を割っていたと思います。「足が痛い」「腰がいたい」「長い距離を歩けなくなった」と、たくさんの方が楽しみにしていた旅行を断念しました。

それはまだ、介護保険が始まる前のこと。当時は、介護予防なんて概念はなかったから、それを受け入れるしかなかった。とても残念でした。

それから20年経ったいま、要介護状態になったお年寄りが自由に旅行ができる時代になったかというと、そんなことはありません。当時と比較したら、だいぶ交通機関や観光地のバリアフリー化は進んだし、介護(介助)は一般化したと思います。

でも、まだまだ自由に旅行ができません。

旅行に行ける未来をつくる

だから1つ目は、そうした方々が旅行ができるように、人材を養成し、旅行に行ける環境をつくること。そのために一般社団法人日本介護旅行サポーターズ協会の立ち上げに参画していただいた方々と、精一杯活動していきます。

介護士の給料を上げるには

2つ目は、介護士の給料を上げること。介護の仕事はとても専門的で、難しい仕事なのに、給与レベルは決して高くはありません。新型コロナウイルス感染リスクがある状態で働いているのは、医療も介護も同じなのに、医療ばかりがフォーカスされます。

悔しいですね。

しかし、少子高齢化が今後も進行しますから、社会保障費を国全体でなんとか抑制しなければいけないという状況も理解できる。介護士の給料を上げるために、介護報酬を今以上にあげるということは、現役世代の負担がさらに大きくなることを意味します。そう簡単な話ではないのです。

そこでやりたいのは「介護」になにかを組み合わせて、新しいビジネスをクリエイトすること。それによって新しい“稼ぎ口”をつくりたい。

例えば僕がやっている「旅行介助士」は、介護スキルを旅行の場面で活用することで、介護士が報酬をもらう仕組みです。普段は介護事業者で働いて、休みの日にお年寄りの旅行のお手伝いができれば、サラリーは増えると思います。

介護事業の中で高給を目指すのは難しいかもしれないけれど、こうして何かに組み合わせれば、サラリーアップの可能性はある。それを僕が証明してみせて、いろんな業界に派生させていきたいのです。

ことわっておきますが、これは「介護保険外事業」とは違います。どちらかというと「副業」の仕組み。

例えば、自分が働いている施設の利用者を旅行に連れ出すとき、勤務で行こうと思うとシフトに穴をあけることにもなりますし、何より給料はアップしません。しかし、協会を通して「副業」として利用者を連れ出せば、勤務に問題はないし、サラリーも上がる。そんなことを目指しているのです。

一緒に介護業界をアップデートしよう!

プロフィールなのに、こんなに長くなりました。僕のことを知ってもらうことで「一緒にやりたい」という仲間が増えたり、「こんなアイデアがあるよ」という方があらわれたりしたら、素敵だなと思います。

ぜひ、一緒に介護業界をアップデートしていきましょう!そのために、noteでは、いろんなことを発信していきたいと思っています。

よろしければ、サポートをお願いします!いただいたサポートは「旅行に行ける未来をつくる」ために有効に使わせていただきます!