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改めて良い作品を作るための心がけを考えてみる

自分の創作のポリシーについて、正直申し上げると以前はどこかナァナァにしていた部分があると自覚している。これは私自身が甘い性格だったのと、また、仕事にしていく上で頑固で融通が効かないのはよくないから、という理由の二方がある。

しかしながらこれは仕事の質を上げる事には全くならないと反省し、意識の更新を常にしていくつもりで昨日も今日も生きている。
何より大事なのは完成度である。どこに完成度のディティールをつきつめるかによって個性が現れる。例えばスーパーリアリズム絵画もデフォルメの激しい漫画も、ある様々な突き詰めによって、人に見せられるかたちが出来上がってると言えるからだ。

それで自分が完成度ということを考えるときにどこを拘りたいのかを考えてみる。
自分の場合は以下のようだ。他にもあるかもしれないが、だいたいここは拘っている。

①論理的な整合性がありまとまっていること。もしくは徹底して整合性がないこと。

②その作品を理解するための方法が「個人的」すぎないこと。

③カタルシスとかわいいポイントをそれぞれ置くこと。

①論理的な整合性がありまとまっていること。もしくは徹底して整合性がないこと。

どっちやねん、て話だが要は純度を高めたいのである。
きっちり構成することも、霊感に誘われて音を羅列することも、もしくはひたすら意外性しか突かないことも、僕の中では同値である。それぞれの作品に眠る哲学はブレないようにしたいのだ。

②その作品を理解するための方法が「個人的」すぎないこと。

これはかなり気を付けてると思う。なぜなら伝わらない事は僕にとっては嫌だからだ。
少し前の自分ならこれはあまり心掛けなかったが、やはり作品を面白くするためには入り込みやすさは大事だと思うのだ。極端な話、研究は作品が完成しなくても常にできるのである。
ではその伝わりやすさはどのように形成されるかだが、何を題材にするか以上に大事なのは、動線が丁寧かどうかだと思う。
人間は連想ゲームの連続でしか抽象的な概念を理解できないと思う。よってその連想に次ぐ連想をどこまで描き切るかなのだと思う。

③カタルシスとかわいいポイントをそれぞれ置くこと。 

いわばクライマックスとぬけ感だろうか。クライマックスは音楽を作る時にだいたい考えることが多いが、ぬけ感は常に心掛けないとやりにくい。しかしぬけ感が全くないと、シリアスに作ったのに睡眠を呼び起こす音楽ができてしまう。ほどほどに聴くものを振り回す程度にスポットを設置する事は大事なのだと思っている。
ではそのぬけ感とは何かという話だが、これは①と矛盾するかもしれないが、少しばかり脱線を試みる事だと思う。その脱線が許される脱線てあればぬけ感となる。その許されるかどうかがむしろ①とかかわるかもしれない。
全く違う方向に一瞬だけシフトして元に戻す。その違う方向に伏線があればなおよい。その違う方向がわからないくらいさりげないとサイコー。

これは私自身の理想について述べるものであり、かなり断言めいた文となったが、この意見と違う者を批判する意図はないことを添えておこう。
こういうことをたまに考えるのは創作においてよきモチベーションとなるのだ。

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