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伝えてはいけない(?)こと-1998年「ドクターキリコ青酸宅配事件」 #3-

富士の樹海近くのペンションの小さな部屋で、「ミチコ」は自分たちの「死を希う(ねがう)こころ」を語ってくれました。自分がインターネット上に作った「ドクターキリコの診察室」という掲示板で薬物自殺について人々の相談に乗っていた「クサカベ」が、希望者に青酸カリのカプセルを送っていたのは、「これがあればすぐ死ねる。掌の上にある猛毒を見て死に思いをはせれば、今この瞬間をやり過ごして生き続けることが出来る。このEC=エマージェンシー・カプセルは”お守り”なんです」

死か生か、その選択肢が詰まった青酸カリのカプセルをお守りに生きる…。この論理を彼女は事情を聴きに来た刑事にも話したといいます。しかしそれは受け入れられませんでした。外形的には、猛毒の青酸カリを希望者に宅配便で送り、3万円の金銭を受け取っていた。毒物の販売、自殺幇助…。「クサカベ」が自ら命を断っている以上、この構図で警察が事件を処理するのはいわば当然のことでした。

死にたい自分たちとそれを理解しない(内心はどうかわかりませんが)警察、そして警察の言う通りの構図で事件を報じ、「ネットの闇」で「病んだ心」が伝播することを憂慮するメディア。穏やかに話してくれはしましたが、「ミチコ」の口調には無理解者たちへの怒りと、ある種の蔑みのようなトーンがにじんでいるように思えました。そして彼女がこう思っているのはないか?インタビューの最中に突然不安がわいてきました。

「どうせ、あなたも理解できないでしょ」

自分のことを理解できないだろうと思った相手に、人は本当のことを話すだろうか?彼女が見せている白いカプセル、それは本当にこの事件で「クサカベ」から入手したものなのか、中に入っているのは本当に青酸カリなのか、「ミチコ」は本当にこの事件に関わっているのか…?

インタビューというのは実は聞く側と聞かれる側の「馴れ合い」です。聞く側は聞かれる側の「話したいこと」しか聞けない。話された事が一点の曇りもな「真実」なのかどうか、本当は確かめるすべもないので、「本当のことを話してくれてますよね」とお互いに無言の協定を結びながら、インタビューというものが世界に、無数にまき散らされます。

「ウラを取る」という言葉が業界にはあります。その存在の確かさすらあやふやな、ハンドルネーム「ミチコ」という女性へのインタビューのあと、彼女から聞いてきたことをどう「ウラ取り」すれば社会に伝えることができるのか、「真実性の担保」という大きな壁に直面することになりました。

壁は、もう一つありました。「自殺を肯定するかのような主張を社会に発信していいのか」という問題です。「死を希う心」は時に「病理」呼ばわりされ、それを奨励すると受け取られかねない危険が「ミチコ」の言葉には多分に含まれていました。

東京に戻ったあと、彼女に改めて連絡しました。

「貴女の主張が事件の”真相”を語ったものだと信じたい。しかし信じたい、だけでは客観的な報道は出来ない。大変お願いしにくいけれど、貴女の身元を証明するものを確認させてほしい」

長くメールのやりとりを続けた末、ようやく会ってインタビューに応じてくれた相手に言い出しづらいことでした。信じてくれないならいいですよ、と以後の取材を拒絶されるか、あるいは彼女自身ネットで発信の手段をもっているので「また無理解なマスコミがやってきた。自分の明かしたくないプライベートを探ってきた」と指弾される可能性も考えました。

「身元確認といっても、私は免許証も持っていません、でも…」

数日後、再び会った「ミチコ」はバッグから一枚のはがきと数枚の名刺を取り出しました。はがきは直近の選挙の投票のために彼女に送られてきたというもの、選挙管理委員会によって住所も本名もはっきりと記されています。そして名刺は、彼女のもとに事情を聴きに来たという複数の刑事のものでした。

「これで信じてもらえなかったらしょうがないですね。選挙に行くつもりもないし、名刺も要らないので持って行っていいですよ」

これらが全部フェイクなら、だまされて本望、その時そう思いました。そして「ミチコ」がそこまでして裏取りに協力してくれるなら、彼女の伝えたい気持ちも本物だと信じよう。

「ドクターキリコ青酸宅配事件の深層」として、「ミチコ」のインタビュー、青酸入りカプセルの映像、「クサカベ」の母親インタビューは全国放送されました。「真相」とタイトルをつけることはやはり憚られ「深層」とさせてもらったのは、この事件の真相なんて永遠にわからないだろうと思ったからでした。当事者たちの「死を希う心」も…。

あれから20年以上の年月が過ぎ、自身「死にたい」と思う経験もしました。そして今なお「希死念慮」を抱いた人たちのニュースがメディアにあふれるのを目にすると、こう思うのです。

そのニュースは、取材者によってどこまで裏取りされたものなのか、伝えられるのは「死」で、当事者たちの「心」は置き去りにされていないか、と。

                               (了)


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