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いくら考えても結局好きなものに行き着く

前にヒューリスティックの話をした。難しい問題を「簡単な質問に置き換える」というある種の"思考のプロセス"である。
とても便利で使いやすい。
しかし、この便利機能はすぐに扱い方を間違えさせるという話もした。
詳しくは、前の記事を見てくれ。(題名は忘れた)

今回は、その類の話だ。
さて、あなたは感情を動かされるとその情報を過大に評価する。
アメリカのある統計によると、雷で死ぬひとは集団食中毒で死ぬ人より25倍多い。
他には、あるアンケートをとったところ、病死は事故死の18倍に達するが、同程度と判断されたようだ。
なぜ、こんなにも僕たちの認識している世界と統計データには差があるのだろう。
この場合、マスメディアなどによる影響が大きいからだ。

現代では、色々な技術があるが、あなたに好きな技術と嫌いな技術があるとしよう。そして、好きな技術、嫌いな技術、それぞれのメリット、デメリットを書いて欲しいと言われると、あなたは、好きな技術にはメリットを過大に評価し、デメリットを考慮しない。
逆に、嫌いな技術になると、メリットは思い浮かばないだろうし、デメリットを強調する。

結局、あなたは、好きか嫌いかで大半の物事を判断しているのだ。
もちろん、好きか嫌いかで物事を判断する良し悪しは状況によって異なる。
しかし、大半の人が、物事を好きか嫌いかで判断することは良くないと思い込んでいるように見える。
その理由として、ある意見を述べた時、その理由として、「これが好きだから」という事をいう人が中々いない事。つまり、最初から自分の意見は好き嫌いで決まっているのに、何かしらの理由をつけたがると言っているのだ。
そして、無理に自分の意見を正当化しようとする。正確性が犠牲になってまでも。
僕の意見陳述の場ではないので、このぐらいにしておく。

そして、特に、意見が対立する人達と状況がある。
それは、専門家と一般市民が価値観で対立した時である。
専門家は程度は弱いが、一般市民よりかは数字や合計の扱いに優れている。
そして、リスクに関する事だと、一般市民とはかなり違う。
専門家はデータなどの客観的な証拠に頼ってリスクを計測するが、一般市民は、ある物事に対して「良い」か「悪い」かの主観でリスクを計測する。
例えば、スポーツの反則などだ。反則は反則だが、何かを基準に「今のはしょうがない」などという屁理屈をつける。しかし、統計では良いも悪いも1回の反則としてカウントされる。つまり、一般市民はリスクに対しての見方はより繊細で豊かであるということも言える。

今回は疲れてしまい、話の内容の整理なども上手くいかなかった。申し訳ない。次回からはもっと面白く、整理して書くつもりだ。
では!また次回!

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