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今流行りの論破
ここ数年で世間の「論破」に対する捉え方が変わってきている感じがする。
論破をしたいと思う人が増え、相手を論破することを楽しみ、論破という方法を使いその人よりも優位に立ちたいと密かに思う人は増えたのではないかと思う。
その表れとして、「論破法」みたいなことを解説する人が増えたり、誰かが誰かを論破した動画はとても再生回数が多い上に、勝手にコメント欄などで自分の意見を語り、コメント欄でも論破争いが繰り広げられている。
見苦しさが賑わっている。
なんのために議論をするんだろう。もちろんそれはさまざまな理由がある。
しかし、前提として、議論というものは何かを解決するために行われる儀式みたいなものである。
何かを解決するという事は「ある一つの結論に辿り着き、なおかつそれが極めて正確であること」で、ある問題が解決したと言って良い事になる。
ある一つの結論になるだけが解決と呼んでも良いが、正確性を無視する事ということは、それほど重要な問題ではないのである。
つまり、Youtubeのコメント欄で騒いでいる人達レベルの話題では、一つの結論に辿り着く事は簡単かもしれないが極めて正確性に欠けているだろう。
その正確性に欠けている理由は、「相手を論破する事」が目的になっているからという理由も一つだ。
他には、立場的に、その問題について解決しなくても良い立場だからというのも一つなんだと思う。
このようなものはある一つの物理現象として見ると奇妙で面白いからコメント欄で質の低いおしゃべりをしているのが悪いなどというつもりは全くない。
そしてこれは、Youtubeのコメント欄だけではなく、日常の議論もそうだ。
コメント欄よりかは見苦しくはならないが、議論の最初の目的をいつの間にか忘れていたり、悪態を余計についたり、意味のない罵倒などもするのではないだろうか。そんな事は正確な結論を導くために全く関係ない事なのに。
いつの間にか、自分の言いたい事を言おうの会になってしまっているということだ。
人間である以上、もちろん仕方のない事だがもう少し見苦しい人間にならない努力はするべきなのではないかと思う。
こんなことを有名な人が声かけをしたとしてもその動画のコメント欄には、いつの間にか働いている現象なので、これからも見苦しさで笑えない日は来なそうだ。
という事も、不合理や愚かさを書いている僕は面白いなと思ってしまったので記述してみたまでだ。
では!また次回!
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