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『適応障害』とわかった日。【後編】

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"だれかのために"が、原動力だった


心療内科受診を薦められた日。
近所のクリニックを検索しながら、責任者になってからこれまでの3年間で感じていた自分自身の違和感を思い返していました。


・朝目が覚めてすぐ吐き気・目眩がする
・毎朝鼻血が出る
・通勤電車内で目眩がする(脳貧血でした)
・時間通りに出たはずなのに、数分の遅刻が続く
・日中食欲がない(深夜に爆食いしてました)
・好きだった音楽が聴けない
・寝つきが悪く朝まで眠れない
・頭が空っぽになるときがない(常に現場のことでいっぱい)
・一瞬、今どこにいるかわからなくなる
・会話中に目の前の人が誰かわからなくなる
・人、モノの名前が出てこない
・喉の奥が塞がって声が出ないときがある
・気づいたら涙が出ている


今でもあることばかりですが、唯一できるようになったのは『音楽を聴くこと』です。



気づいたら涙が出ている
これがいちばん辛かったです。泣きたいときに泣けなくて、なんでもないときにツーッと涙が流れて、「あ、涙が出てる」と自覚したとたん止まらなくなっていました。


いつだって私は、幼い頃から、自分のためによりも相手のためになら行動できました。

自分がしたいことよりも、相手がしたいことがいちばんだし、必要ならサポートも進んでしました。


"してあげてる"つもりはなくて 自分がそうしたくて、まわりまわって「自分がしたいことをしている」のだと思っていました。



責任者になってほしいと言われたときも、

他の職員には家庭があったり、パートナーがいたり、それぞれの環境がある。独り身の私は身軽だから、何かあったらすぐ現場にかけつけられる。シフト交代もできる。


だから「やります」と答えました。


みんなが思いきり働けるように、
みんなの負担が減らせるようにと、


「私がやります」と引き受けました。


見返りを求めているわけではなくて、"私がそうしたかったから"やってきたので、しんどいとかつらいとか思ったことは全くありませんでした。


でも、この3年間は違いました。


私がやったことに対して何かしらが覆い被さってきて、私の思いを伝えたいのに喉の奥が塞がって声が出なくて苦しくて、

網にかかった魚のような状態でした。


認められたいのではなく、
褒められたいのではなく、
私はただ、報われたかったのです。

心療内科を薦められたこの日。
私は初めて、「しんどい…」と言葉にしました。



自分の苦しさを認めてもらえた


翌日、下がらなかった熱がすっかり下がったので心療内科を受診しました。

眼鏡をかけた優しい目をした男性の方が、診察してくださいました。

うまく話せるかわからなかったので、これまでの状況や身体の症状を文章にまとめて診察時に問診票とともにお渡ししました。



うん、うん、と小さく呟きながら
頷きながら読んでくださいました。


そして、まっすぐ私を見て、


「今日まで、よく頑張りましたね。」

「もう、我慢しなくて大丈夫ですよ。」


と、笑いかけてくれました。


「勇気を出して、今日来てくれてお話してくれてありがとう。よく頑張ったね。」



と仰ってくださったとたん、気づかないうちに私の中で張り詰めていた何かがぷつん、と切れて涙が止まらなくなりました。


泣きたいときに泣けなかった、3年分の涙が溢れて止まりませんでした。



他にもいくつか質問を受けて、


「適応障害、と診断させてください。」


と優しい声で、あたたかい眼差しで告げられました。


ぐるぐる、もやもや、ふらふらした状態だった私の3年間に、名前がつけられました。


ああ、やっぱりそうか。

名前がついたとたん、離れたくなりました。
診断書を社長に見せて、退職したいと伝えました。
引き止めもせず、受け止めてくれました。それから3ヶ月後に、職員には病名は伏せて私は退職しました。


耐え抜けなくて、踏ん張れなくて、逃げて情けないって思いながら、今日まで過ごしてきました。

毎晩、職場の夢を視ます。
目が覚める度に憂鬱で起き上がれなくて、家から出ない日がほとんどです。


でも、1年前のあの日。
心療内科に行かなければ、今ごろ私は壊れていたかもしれない。


だから、あの日先生に言われたように

「勇気を出してくれてありがとう」

と心から思います。



まだまだ治療中ですが、やっと"もうひとりの自分"を抱きしめてあげられました。


私の人生史の新章が、ようやくスタートするような気がしています。



この記事が、世界のどこかで"頑張りすぎている誰か"に届きますように。



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