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PLAN75はDNARの延長線上にあるのか?

人間は自分たちの死をコントロールできるのか、してよいのかどうか。
これがこの映画に通底する疑問である。
人が死を選ぶとき、それは本当に自分の意志だけで選んでいるのか?ほとんどの場合、それはNoと言わざるを得ない。スピノザや中動態の考え方を踏まえると、自分の意志だけでなにかを決定することはほぼありえないことは明白だ。周囲の環境や人から、なにかしらの影響を受けたり、原因があって、人は行動を決定する。死についても同様だ。「早く死にたい」と思わせる社会的状況があって死を選ぶという行為が発生しており、そこで「ほんとうは生きたい」という欲望は損なわれていく。完全に周囲の環境から自由な意思決定はできない。そこに周囲からの「早く死んでほしい」という欲望、圧力があることを、この映画ははっきりと写し出す。
人は社会的動物であり、社会の中でしか生きられない。だから社会が自らの「死」を望んでいるなら、そこに逆らわずにしたがって、自分は死を選ぶ、そうして高齢者たちはPLAN75を選択する。社会のお荷物にならないために。
現在の医療におけるDNAR(Do Not Attempt Resuscitation 蘇生処置を行わないこと)からPLAN75までは地続きだ。高齢者が入院すると、必ず「延命処置は希望しますか?」と聞かれる。ここには暗に、「延命処置を行い助かったとしても、今までの自立した状態で生きることはできない。そうだとするなら、このまま亡くなったほうが医療者も患者も幸せなはずである」という考えが含まれている。実際、回復の見込みが乏しい高齢者に対する心臓マッサージや人工呼吸器管理は、医療者も苦しい思いをすることが多く、そうした不毛な行為を行いたくないという欲望が含まれている。その考え自体を否定することはできないが、現在の医療ではルーチンのように一律に確認することが横行しており、同意することが半ば強制的になっていることも否めない。同意することが医療者と患者お互いのためであるとしたら、それを少し早めて、命の危険が差し迫った状態より少し前に、まだ自分の意志を決められる段階で死を選択することも可能ではないか?という思考実験である本作は、あまりにリアルである。

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