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「明日のたりないふたり」は今日のたりない私だった

2021年5月31日、若林正恭と山里亮太のコンビ「たりないふたり」は解散した。無観客で行われたその解散ライブを齧り付くように見て、腹を抱えて笑って、そして大泣きした。配信アーカイブも2回見た。2度目の視聴でも同じぐらい泣いた。漫才で泣くなんて思わなかった。それは漫才のかたちをした、二人の魂の叫びだった。

たりなくていいのか、もうたりてないわけない、年齢を重ねた俺たちは、12年経って大人になった俺たちはあの時とはもう。

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そんな配信ライブが再度観れる、しかも映画館の大きい画面で観れるという。観ないわけがねえ!ということで観てきた。結果として今回も泣いた。大笑いしながら大泣きした。

多分やっぱりネタバレしちゃいけない空気を感じるから、できる限りネタバレしないように語りたい。

パワーーー!!!(なかやまきんにくん風)

君たちは笑顔でぶん殴り合う奴等を見たことあるか。私はある。そこで見た。漫才師同士のフルパワーのぶつかり合いがその舞台上にはあった。出てくるワードのセンスやら、それがパッと出てくる反射神経やらが強すぎる。言っては返し、言っては返すの応酬一つ一つが面白い。それだけじゃなくて、徐々にパワーを増してぶっ刺さりワードまで炸裂してくるんだから恐ろしい。後半に向けての山ちゃんが神がかってた。ああ、お前さんは天才だよ。間違いなくね。

若林正恭

彼の叫びとライムに何度泣かされたことか。その刃で何度貫かれたことか。
自分語りが多い、って山ちゃんにたくさん言っていたけど、何度それは彼自身を貫いていたんだろう。
こうして自分語りばかりする私の心臓も、同じぐらい痛かったよ。

「たりない」は「満ち足りない」の「たりない」

二人は人間として足りないことを漫才にしていたんだけど、最後わかったことは「いつだって満ち足りない」ということだった。結婚してパートナーと一緒にいても、大きい番組でMCをするようになっても、たくさんの経験をしてきても、たりないものはたりない。それは人間としてのスキルが足りてないのでなく、どこかが欠けているとぷとぷと溢れ出ている感覚に近い。満ちることはない、穴の空いたバケツのように。注がれても注がれても、どこか空虚なんだ。

なんでこうなんだろうって考えれば考えるほど、思い当たる節がありすぎる。腐敗して崩れ落ちたところはもう元には戻らない。水を与えても、もう無駄なんだよ。だってそこはもうしんでいるから。

多分生涯満ち足りないんだと思う。私も、ふたりも。だけどそれでいいんだって。たりない仲間はたくさんいるんだから。

ああ、これで泣ける私でよかった。たりない私でもいいんだ、って、自分を許せる優しさをありがとう。また気が向いたら、な〜んか漫才したいなって気分になったら、また漫才してね。くだらないやつでいいから。待ってる。

最後に。びしゃびしゃに子どものように泣きじゃくるDJ松永さんが可愛くて笑っちゃった。まさかここで笑っちゃうとは。

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