バッハ『マタイ受難曲』:とびきりやさしい誇大妄想は罪か?
『マタイ受難曲』濱田芳通+アントネッロ @川口総合文化センター リリア
私にとっての『新約聖書』の位置づけについて
私は神を信じていない。いや、未だに信じることができていない、と言った方が正しいかもしれない。この世界を生きる上で、どんな形にせよ信仰を持つことができれば、それはどんなに力強い拠り所となるだろうか。新旧聖書やクルアーンをはじめ、マヤ神話の『ポポル・ヴフ』やオウム真理教の『STEP TO 真理』みたいなものまで読んでみても、その考え方の有用性は理解できるものの、悲しいかな最後の最後で、神や超越者の存在を信じることができない。たとえ「信じたこと」にしたとしても、本来的な意味での信仰とは、きっとそんな打算的でプラグマティックなものではなく、もっと内的で、揺るぎないものなのだろうと私は思う。たとえば天からの声を聞いて盲いたサウロのように。或いは、アル中から立ち直ったジョージ・W・ブッシュ・Jrのように。
しかしながら私も、人間の心は時として、とてつもなく素晴らしい力を発揮することは理解しているし、この観点から見ても、新約聖書のイエスの物語は大変に興味深いものだと思っている。ひとつの人間の生き方を描いた物語として、こんなに素晴らしいものもそうそうないのではないだろうか。
いきなり申し訳ないが、まず私は、キリストが本当に神の子であったかどうかはあまり重要ではないと思っている。むしろ一人の人間の生き様を語る上では、この設定は蛇足というか、マイナス要素ではないかとすら思っている。もっと言えば、極めて人文学的な、現実的な見方をすれば、彼は「自らが犠牲となることで世界の人々が救われる」という誇大妄想を持った人間だった、と理解することすらできるのではないか。
この妄想により、彼は神を侮辱したとして磔刑に処せられるわけであるが、しかしながらこんなに優しい、ここまで滅私的に他者を思いやる思想を、私は他に知らない。この妄想に自己利益の観点は一切なく、あるのはただただ他者へのしあわせの祈願である。その点で、彼の言う「汝隣人を愛せよ」というテーゼは、何よりも真摯なものとして私の胸を打つ。
しかもなお凄まじいことには、彼自身は徹頭徹尾自身の妄想を受け入れ、喜んで磔刑を受け入れた(藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」※のように)のではなく、新訳聖書の中には、彼が何度か自らが犠牲になることを恐れているシーンが描かれている。
「「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。」(マタイによる福音書)
そう、彼は自分が神の子であるという考えにどっぷりと浸り込み、自ら進んで、喜んで磔刑になったのではなく、その結末を自覚して恐れつつも、なおそれを選び取って、自らの決意によって、十字架に掛けられたのである。
「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マタイによる福音書)
この悲壮なまでの覚悟というのは、他の著名な文学作品にも劣らない程に、人間的な、あまりに人間的な態度ではないだろうか。実は彼が神の子ではなく、実際に人々の原罪が贖われなかったとしても、いや、むしろ彼がただの一人のしがない人間である方が、彼のこのまばゆいばかりの決意は、いっそう素晴らしいものとして、唯一の輝きを帯びることだろう。
ではもし彼が本当に神の子であった場合(聖書はこの筋書きで書かれている)に、得られるものとは何だろう?
この点については、私はカート・ヴォネガットに全面的に同意する。
「どのような卑しいものに対しても憐みの心を持つようにと人びとに教えること、それが福音書の本来の目的ではないのか。だが福音書が実際に教えるのは、こんなことだ ─ ─「だれかを殺したいと思ったら、相手が有力なコネを持つ人間でないことを充分たしかめてからにせよ」そういうものだ。」(カート ヴォネガットジュニア; 伊藤 典夫. スローターハウス5 (Kindle Locations 1757-1760). 株式会社早川書房. Kindle Edition. )
私はあくまで、イエスが一人の人間として自らの信念を全うするため、それも全面的に他者を救うという目的のため、自ら十字架を選び取ったことをこそ、途方もなく美しい行為として刻みたい。
バッハ『マタイ受難曲』について
前置きが非常に長くなりましたが、今回、川口市の総合文化センター・リリアでバッハの『マタイ受難曲』全曲をやると聞いて、聴きに行ってきました。
バッハの「受難曲」といえば上記のようなイエスの物語を合唱曲として創り上げたものであり、一般的には『ヨハネ受難曲』と『マタイ受難曲』が有名ですが、自分はどちらかというと『ヨハネ受難曲』ばかりを好んで聴いてました。『ヨハネ』の方がエネルギッシュでドラマチックな展開をしていて、聴く側としても緩急があって耳馴染みが良いのですが、一方『マタイ』はどうも暗くて平坦なイメージ。しかも『ヨハネ』ですら全曲通すと2時間くらいあるのに、『マタイ』は3時間もあるんですよ!
しかしまぁ今回は良い機会だ、ということで心して臨みましたが、実際に行ってみると、まぁそれはそれはほんとうに素晴らしい体験だった。
一見地味で暗く聴こえる『マタイ』のそれぞれの曲も、ドイツ語歌詞の字面を追いながら、キリストや周りの人々に寄り添いつつ聴いていくと、イエスが死んでゆくことに対する深い深い悲しみに私自身もどっぷりと浸ることになって、後半はもうほぼ常に涙が滲み出ているような塩梅でした。『ヨハネ』の方は要所要所で高らかに謳い上げるような楽曲も含まれてましたが、こちら『マタイ』はここぞ!という時にも決して声を荒げることはせず、深い深い悲しみを、イエスへの敬虔な信仰心のみを偽りなく真摯に謳う感じで、『ヨハネ』も『マタイ』もそれぞれに大変素晴らしいものであることがわかりました。
今回私が感じた『マタイ』の白眉は、何と言ってもペテロが3回否認した後の、後悔の念を謳う「Erbarme dich」の曲。イエスが連れ去られ、ペテロの深い後悔に寄り添って謳われるこの曲は、果たしてこれはこの現世の曲なのかと思うばかりに美しかった。今回これを謳われた彌勒忠史氏の歌声は本当に素晴らしく、声楽でここまで清浄な、混じりっ気なしの純粋な敬虔さが表現できるのかと感動しました。
私自身は、この曲は以前からアンドレイ・タルコフスキーの『サクリファイス』のオープニングで流れる曲として知っていたし、『マタイ』からの曲であることも何となく認識してましたけど、恥ずかしながら謳われている内容までは知らなかった。
少し横に逸れるが、タルコフスキーの『サクリファイス』について。
この映画は、見渡す限り人の気配がないような海辺の一軒家に家族と一緒に住む、老齢の美術史家(それもキリスト教のイコン(聖像画)を専門としているらしい)と、その家族、また何らかの理由で言葉を失ってしまった彼の孫の物語である。
彼らは平穏(或いは些かの不穏な空気の下)で代わり映えのしない静かな毎日を暮らしているのだが、ある日突然世界が終焉を迎え(核戦争?)、世界は滅亡してしまう。そんな中、主人公はメイドの女性が神の遣いであることを知り、「自分を犠牲にする変わりに世界を元に戻してくれ」と祈願する。結果として世界は元通りの平穏さを取り戻すことができたのだが、一方で彼は、誰にも知られずに、その償いを果たさねばならない。
映画の最後のシークエンスでは、彼が世界の犠牲を払うために全てを投げ出し、周りからは気が狂ったと思われ収容されていく様が、ロングショットの長回しで延々と捉えられる。これが、何とも言えず哀しく、そしてとてつもなく美しい。
そう、何のためにいきなりこのマイナーなソビエト映画を紹介したかと言うと、このペテロの「Erbarme dich」をきちんと歌詞を追いながら聴いてみて初めて、タルコフスキーがこの曲で何が言いたかったのかが分かったんですよ!
この曲はペテロがイエスに「三度私のことを否認するだろう」と言われながら、それを真っ向から否定しながらもその通りになってしまった後で、「どうか私を憐れんでください」と身を切るような哀切の中で乞い慕う曲。一方で、タルコフスキーの『サクリファイス』においても、誰にも知られずに世界を救い、たった一人で孤独にその犠牲を払う主人公が、同じように「どうか私を憐れんでください」と神に祈りを捧げる様が、この「Erbarme dich」に暗示的に、オープニングで示されてたんですよね。構図はそれぞれやや反転していますが、何と真摯な、何と切実な神への祈りであることか‼!!
そんなことなんかをぐるぐるぐるぐる考えながら聴いていると、これまで人類の歴史のなかで、どんなに辛い目に遭いながらもイエスの福音を信じて生きてきた、数知れない人達のことなんかが延々と思い浮かんできて、もう何と言ってよいのかも分からない、ただただ人間の清浄なこころのはたらきにのみ触れているような心持ちがして、涙が溢れて止まりませんでした。
『マタイ』の楽曲そのものの素晴らしさはもう言わずもがなですが、今回は合唱の皆さんやオーケストラの皆さんも本当に素晴らしかった。先述の彌勒氏をはじめ、合唱では皆さん一人一人がソリストとして素晴らしい歌声を披露してくれたし、それぞれがソロの前にステージ前まで出てきたり、皆でイエスを嘲笑する声みたいなのをSE的に挿入したりと、演出も大変にエモーショナルで良かった。
またオケの人達も、傍から見てても分かるくらいにバシバシに弾いていて、しかしそれがまた全くマイナスに働かず、ただただ皆でイエスの祝祭を祈っている感じが本当に素晴らしかった。やはりこれは指揮の濱田芳通氏の新しい解釈に依るものなのか?
そして観客も観客で、私はマタイなんて聴衆の半分くらいは寝るんじゃないかと思っていたのだが、聴衆も舞台と濃密に一体となった、素晴らしい緊張感でした‼川口市民のクラシックリテラシーが異常に高いのか?それともよく知らないが、このイベントは界隈では有名なものだったのか?何にせよ3時間があっという間で、こんなコンサートはもう二度と体験できないのではないだろうか、と思うほどに素晴らしかった。ありがとうございました。
今回の会場、川口総合文化センター リリアの音楽ホールには非常に立派なパイプオルガンもあり、どうやらこれからも魅力的なオルガン演奏会や、世界のヴィルトゥオーソたちの演奏会が予定されているようです。
私も、未だに神のことは信じられませんが、人間のことだけは、いつでも、いつまでも信じていられそうです。
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