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令和4年5月文楽公演見聞録


『義経千本桜』

伏見稲荷の段/道行初音の段/河連法眼館の段

文楽の醍醐味として、磨き上げられまくって真球のように、覗けば映り込むほどピカピカになった芸の妙味を楽しむというのは勿論のことだが、一方で派手で観客をワッと驚かせる外連味(ケレン味)たっぷりの演出も大きな楽しみの一つだと思う。

桂米朝師匠も『豆狸』の枕でお話しされてましたが、昔はパッととんぼ返りを打つとか、ササッと早着替えするといった観客を驚かせるような演出を「外連」と言ったそうですな。

今回の義経千本桜は、まさにその外連味のある演出のフルコースでした。人形や遣い手の早着替えは勿論のこと、書き割りのあっちに顔を出したと思ったら次の瞬間にはこっちに顔を出すとか、ラストはサブちゃんばりのど派手な演出に観客一同ウワーッ!!!!っとなって、大盛り上がりで幕引きを迎えました。しかもこれを当代随一の人形遣いであるところの桐竹勘十郎がやるときたもんだ!!
いやー良いもん観させて頂きました。登場人物が鼓の音に矢も盾もたまらず、かつての志村けん『東村山音頭』の「いっちょめいっちょめ、ワーオ」のような動きで踊り出してしまうシーンなんかは白眉でした。

しかし上方文化のこういう「派手にいったろ」の精神が私はとても好きで、落語なんかも扇子と手拭いだけで引き算の演出をするよりは、賑やかに鳴り物鳴らして見台をバシバシ叩きながらやる方が観ていて断然楽しいと思うけどなぁ。人形がクリクリ登っていったらおもろいやろ、と思ってそれを実行する精神をこそ私は尊く思う。私自身もそのようなサービス精神を常に持って生きたい。これからは『東村山音頭』でいこう、と決意を新たにさせられました。

R.I.P 志村


『競比伊勢物語』

玉水渕の段/春日村の段

こちらは忘れられた演目の35年ぶりの再演とのことですが、うーんやはり長年採用されなかった理由は物語の構造にやや無理があるからでは…と思わざるを得ない展開だった。生まれの尊い人の生命を守る為に下賤の者が身代わりになって死ぬ、という身も蓋もない話が美談として本邦の古典ではよく語られるが、本作はそんな類いの話の中でも、どこからどう見てもそらあんまりやろ、という筋書き。なにも善良に生きてきたおばあさんを、そこまでいじめ抜かんでも。

西鶴の『武家義理物語』にも、あるお侍が自分の息子と上司の息子を連れて旅をしていたところ、無茶した上司の息子がかなり自業自得な感じで溺れ死んで、自分の息子に「けじめのためにお前も死んでくれ」という話があった(息子は死んで誉れを保ったという美談)が、やはり武家物・軍記物というのは武士特有のエクストリームな義理観と不条理のギリギリのあわいにこそ成り立つものなのかもしれない。

果たしてそれを美徳だと思うのか、ムチャクチャやろ、と思うのか。近代化が進み日本人の意識が急激に変化していく中で、森鴎外が『興津弥五右衛門の遺書』や『阿部一族』といった諸作の中で何かを問おうとしていたような気もするが、或いはそんなこと全然問うていなかったのかもしれない。これから自分が死ぬまでに鴎外を読み直すタイミングがあれば是非意識して取り組みたいテーマだが、もうそんな機会はないような気がするなぁ。鴎外を読むには、もはや毎日の生活が姦しすぎる。


とりあえず誰かのために死ねと言われた時は、ベタに加川良のスタイルで行きたいと思いました。

加川良/『教訓』


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