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人の数だけ

"人の数”だけ多くの「当たり前」や「常」があって。
でも、それをどんっと受け止められるほどの心の余裕と穏やかさをいつも持ち合わせられるわけではなくて。
それが悔しくもあり、情けなくもあり、そして皮肉にも自他への憤りすら感じることもある。
「多様性」を想い、受け止めることは想像以上に難しく、心が筋肉痛になる時もある。
こう感じるのも若さ故なのか、努力不足故なのか、経験不足故なのか。
言葉も態度も自分が「善し」と思える精一杯を貫けないのは私自身の弱さなのか。

つい最近、こんなことを思った。
「憤り」の感情が自分の中に芽生えてたことは驚きだった。

自分の常識は誰かの非常識。誰かの常識は自分の非常識。いつどこで見聞きしたか忘れてしまったけど、多くの人に出会う中で度々思い起こす考え方。
ほんとうに人の数だけ「当たり前」や「常」が存在することを強く自覚する。

それでも。

そう自覚していても、受け止められない時があって、人の数だけいろいろな考え方があるんだよ、っていうことにすら憤りを感じてしまう時がある。
そんな時は決まって、なんて心が狭い人間なんだろう、って自分に嫌気がさす。
同時にこんなこともふっと浮かんだ。

     「自分を受け入れてもらうことが前提になってはいないか」

私は相手に期待してしまう部分が強かったのだと思う。
ここまでやったのだから、評価してもらえるだろう。これだけ丁寧に向き合っているのだから、相手も丁寧に返してくれるだろう。
思えば、なんという自己中心的な考え方なのだと。(苦笑)
私が成した行動に対して相手がどう受け止め、反応するかは自由。
すべて相手の自由なのだ。

相手からの見返りばかりを求めるのではなくて、目的をしっかり定めることも大切だ。
評価してもらうためだけに全力を注いだのではない。
相手からの丁寧な気持ちだけを受け取りたいがために向き合っているのではない。
もっとその先のさらなる進化と深いつながりのために行動する。

いろんな考え方があっていい、価値観があっていい、行動の選択肢があっていい。
一つ一つ受け止めるのが大変なくらい、日常にそれらが溢れている世界だからこそ、辛くなってしまった時は、自分の中の軸を再確認しよう、そう思う。
自分が何を求めていて、誰と関わりたいのか。
どんな環境に身を置きたくて、どんな行動選択をしていきたくて、どんな人になりたいのか。

そして考え溜めるのではなくて、発信していこう。
相手に理解してもらおうとか、受け入れてもらおう、とか他力本願はしない。
良い意味で相手に期待をしない。
それぞれに時間の流れがあって、好き嫌いも違う。
私が良いと思ったことが相手にとっても必ず良いものであるとは限らない。
それでもわずかわずかのところに理解しあえる部分があるとするならば、それはとてもかけがえのないものだと思う。

  その人がその人らしく在れるように。人の数だけ「らしさ」があっていい。

それがストンと素直に心に広がる瞬間を私はもっと得ていきたいし、他の誰かが得ている瞬間をちょっとだけでいいから見てみたいな、と思う。

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