昔スティーブマックイーン主演「栄光のル・マン」を観てシビれました。映画の出来だけではなく、視野のほとんどがスクリーンだった、というのも大きく影響していたと思います。シネラマの巨大スクリーンがもたらすショックはデカかった。今のIMAXはもっと大きいらしいが、小学生だった自分に与えたシネラマほどのインパクトはないかと。今後どんな名作を観に行っても、同様の衝撃を受けることはないでしょう。
「させていただく」って、誰に対して?誰の許可が必要だったの?と、以前からテレビに向かってツッコむことが少なくない。濫用されているといっていい。 と、苦々しく思っていたところ、某TV番組でもこのことを取り上げていた。 この表現の乱発に否定的であるという点において、珍しく某コメンテーターと同意見であった。 「見させていただく」なんて、不恰好な日本語である。「拝見する」という美しく、謙譲の意がこもった立派な日本語があるのになぜ使わないと、疑問に思う。 へりくだりたいのであれ
重傷者、死者が新規感染者と比例しなくなっている。明らかに蔓延防止措置は不要であり、少なくとも営業時間や酒類提供は通常に戻すべきである。 「命が経済か」などとは笑止な命題だ。 経済も命であるからだ。
「時代とともに言葉は変わっていくもの」と言われる。「誤用だ」といってもその指摘が徐々に通用しなくなり、やがて辞書に掲載されてお墨付きとなる。 いつのまにか「重複」は「じゅうふく」と読んでも間違いではないようになってきた。 いずれ「破天荒」が「荒々しい」とか「桁外れのスケール」くらいの意味で辞書に載る日がくるかもしれない。 「豹変する」は既に「現在は悪い方に変わる場合に用いることが多い」と記載してしている辞書がある。 いくら「そうじゃない」と声高に叫んでも、多くの人が