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2023/10/12

Twitter(X)で、誰か知らない人が筒井康隆はSFや純文学だけではなく日記文学の重鎮というふうに書いていて、あ、本当にそうだ!と思う。最近結局(いつもそうなんだけど)筒井康隆からはじまった私は(たとえ藤田さんにいろいろ言われても=あの時、藤田先生はいろいろ思ってきつく言ってくださったのはよくよくわかるんだけど)やっぱり自分なりに筒井康隆さんに影響を受けたんだってことで自分なりにできることを再現と言うかやっていきたいと思うようになった(自分なりの「夢の木坂分岐点」を書きたいのである)。で、日記を読み返していたんだけど息子さんが亡くなってから四日後の日記がやっぱり壮絶と言うかすごいのだった。読んでいて涙が止まらなくなった。こんなつらい出来事をこういうふうにそれでもなんとか書いているというのが本当に作家だなあと思った。本人もきっとそう思いながら書いているんだろうと・・・。それから本当に日記の中で何人もの人を見送っていて本当につらいだろうなあと思う。私も最近失われた人間関係を思って(亡くなったわけではないからそれはそれでまたつらいのだけど、生きているけどもう会えないとか楽しい時はもう無いかもとか)、とてもとてもさみしくなるのだけど。地獄めぐりとか胎内巡りとかそういう言葉がいま頭をよぎったけどなんかそういう感じの人生になるのかなあこれからは。それにしても十三年分の日記がウェブで読めるってすごいなあと思う。ヤフーの記事で読んだとある末期がんの人を妻が在宅でみとった話で、夫がシェフを呼んで最後に美味しいだしやスープを持ってきてもらうところ、なぜか筒井さんの美食描写を思い出してしまった。筒井さんの日記を読むとわかるけどかなりの美食家と言うか食に詳しいというか、思い出されるのは、自分が高校生で「フェミニズム殺人事件」(単行本は1989/10/1、不穏なタイトルだな今思えば)という小説を読んだときグルメ描写がいまいちピンと来なくて(かなりの美食描写を)読み飛ばしてしまっていたこと。今でも正直わかってないと思う。自分はどっちかというとあまり食でごちゃごちゃ頭をつかいたくないというか使えないタイプかもしれない。気に入った同じものを繰り返し食べてしまうタイプかもしれない。あと食べたものを日記に書くのが単純に恥ずかしいというのもあって(栄養バランスがどうのとか思われるのがいやで)、食べ物関係はできるだけスルーしてきたこともあったのだけど、最近どうあがいても食べないってわけにもいかないしただ食べるだけの日々もあるよなあと思っていて(いまごろ気づいたか)、食べ物(描写)と日記って不可欠よなあと思うようになった(だから今更って感じだけど)(といってこれから私の日記に食べ物が増えるかどうか分からない)。


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