日福大の講演会を聞いて

今日、日本福祉大学・知多半島総合研究所の主催で、東海市教育委員会が協賛の「地域を学ぶ歴史講座」が開催されました。講師は元名古屋市立中学校教諭の池田憲一さんで、最初の名は山本五十六にちなんで『五十六』となずけられたが戦後、憲法発布にかけて『憲一』と改名したと自己紹介しました。
愛知県には軍需産業やその協力企業も多く、軍関係の施設も多数あった地域です。軍需産業に否定的であった松下電器産業も軍の圧力に負けて協力したことが、戦後松下幸之助氏が公職追放されそうになったが、従業員の追放反対運動が功を奏し、免れた
今回の演題は「鳴海の名古屋俘虜第二分所」です。
第二分所は名鉄有松駅の近くで、現在は日本車両㈱の社員寮があるそうです。そこには分所の井戸の構造物らしきレンガ積みの遺構があるので掲示パネルや保存を会の目標にしている。
半田市には旧中島飛行機㈱があり、米軍の大空襲で学徒動員がかかっていた中学校性や女学校の生徒や朝鮮半島や中国から強制連行された人も多数、死傷した。

名古屋市にあった棚橋医院の医師は第二分所で医薬品不足の中で鍼灸技術で俘虜を治療した。戦後、鍼灸医療を虐待行為とする意見があったが、米軍軍医の適切な証言で無罪となった。身体に鍼をさしたり、もぐさに火をつける行為は西洋人にとって虐待(拷問)と受け取ってもやむ無しかな。この医師は戦後、政府から叙勲の話があったが辞退し続けた。死の直前になって昭和天皇の計らいで7月25日付の玉璽を捺した勲記、勲章を授けることになった。
BC級戦犯で罪を問われた人の中に、好意の気持ちを表したことがかえって虐待行為と取られて、死刑や長期刑を与えられたケースがある。

ハーグ条約の署名はしたが批准をしなかったし、ジュネーブ条約は軍として無視した。このことは中・下級軍人や軍属や一般市民が終戦後の軍事裁判で有罪判決を受ける要因になってしまった。映画『戦場に架ける橋』や『戦場のメリークリスマス』や『わたしは貝になりたい』に繋がります。ハーグ条約未批准の理由は①敵方航空機の航続距離が2倍になる、②(わが軍には俘虜がいないので)敵方が有利になるだけ、③皇軍の士気が毀損されると言う訳の分からん理由で決定した。日本の政治家や大企業経営者にありがちな発想ですね。

有松に別荘を持っていた城山三郎氏は第二分所に移送された俘虜の姿を見ていた。戦後、城山氏は日本軍(幹部級)のいい加減な施策に立腹し、徹底的に糾弾する小説を上梓している。
それで懲りたはずの戦争指導者(軍人、高級官僚、政治家)は「のど元過ぎれば熱さ忘れる。

岸田総理は内弁慶の見本みたいな人で、自民党の議員総会ではにやにやとし、白い歯をむき出しにしていたのがその証拠です。安倍晋三はいないし、麻生太郎は息子との引き継ぎで余裕なし、菅義偉前総理は応援者がいないので安心しているようだ。その他はどんぐりの背比べですね。

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