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キャリアという言葉に酔っている社会

キャリアという言葉を使うとき、多くの人は、一般に仕事、経歴、就職、出世などのイメージで使われていることが多いと思います。
これもキャリアではありますが、この場合、長期にわたる仕事生活における自分の動きや歩みを指しています。
何年にどこどこの学校を卒業して、どの企業へ入社して、どのような仕事を何年間おこなってきたかという客観的キャリアです。

キャリアを語るとき、このようなことばかりでしょうか。
私(自分)は、なぜ営業部門の仕事から管理部門の仕事へかわりたかったか、あるいは、どうして他の企業へ転職しようと思ったかなど、個人の主観的なキャリアがあります。
この仕事は、どのような見方や考え方でおこなうことを選択したかとか、仕事にかかわらず個人の主観は、いろいろな場面で大切や役割を果たしているものです。

キャリアを考えるとき、客観的なキャリアも仕事のベースであり大切なことなのですが、人は自分のキャリアデザインをするような場合、その多くは個人がもっている主観的キャリアを考えながら、キャリアについて考えていると、私は思っています。

もっとも、企業における採用で、とくに転職する場合ですが、このような個人の主観的キャリアを聞いてくる面接官はいなかった、と私は記憶しています。
ほとんど同じような内容の質問ですが、企業が仕事を遂行していくうえで必要なスキルを判断していることが多かったでしょう。
いちいち個人の内心の話(主観的キャリア)を聞いて、なにがあるの、といった態度でした。

企業の姿勢は、企業内で必要なスキルをもつ人材を労働市場から確保するという考え方が根底にありますから、個人の主観的なキャリアを聞いている暇などないというわけです。
ところが、ソニー子会社の社長の面接だけは、むしろ個人の内心(主観的キャリア)に深く迫る内容の質問でした。
だからでしょうか、私の年齢は36歳、総務や人事の仕事経験なしで採用するのですから、採用面接における人物を把握する観点が、他の企業とまったく違っていました。
後にも先にも、このような面接試験を受けた覚えがありません。

転職時、いろいろなキャリアコンサルタントにも会いましたが、皆横並びに経歴、職歴という、いわば客観的な仕事上の記録を聞いてくるだけでした。
この国の転職紹介会社が求めるキャリアは、職歴や履歴といった単純な評価ベースがあるだけ、そのような評価基準が世の中を堂々と歩いているようにみえたものでした。
汚い言葉で表現すれば、このような単純な評価基準で人物を値踏みしているのです。
勿論、このような単純な評価基準を採用するのには、その理由があります。
企業が、このような単純な評価基準を求めているからです。
転職活動をすればするほど、わが国における企業の採用実態が、いかに金太郎飴型採用になっているかがよくわかります。

この国は、キャリアという言葉が好きな人たちが多いのですが、キャリアという言葉に酔っているだけにみえるのは、私だけでしょうか。。。

あるとき、息子がめずらしく転職について私にアドバイスを求めてきたことがありました。
転職するかどうかは、自分次第だが、私は「結論からすると日本企業はどこへいっても同じ(金太郎飴)だから、将来起業することを考えながら仕事をしたほうがよいのでは」と話をしました。
息子は、私の意見を受け入れたのかどうかわかりませんが、転職をしませんでした。
その後、技術営業の部署から元在籍していた部署である技術本部へ戻りました。
私は、結果として転職を選択しなかったのはよかったと思っています。

金太郎飴型社会は、キャリアのとらえ方も同じように金太郎飴なのです。
そんななかで主観的キャリアと叫んでも、はぁー、という声が聞こえてきそうです。
だから国の地位が年々衰退していくのでしょう。
やはり世界の中で存在感を示すことができる企業は、採用活動ひとつとっても他の企業が真似をできないことをやっています。
それがよい意味で、企業活動のバイタリティーとなり、独自性や創造性につながっているのです。

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