挑戦することが損な社会は、誰も未来を信じないだろう
近頃、70歳までの再雇用制度が話題になっているが、私のように自分でわがままに職歴(今風に言えばキャリアだろうか、私はこの言葉が好きでない)を重ねた者から言えば、本末転倒の議論だ。
そもそも仕事の評価をたいしてされもせず定年まで企業に在籍できること自体が不思議だ。
米国では、結果としての長期雇用はあるが定年制は違法だ。
世界をみれば定年制度を運用している国のほうが少なくなってきているようだが、私には、定年制度や再雇用制度などは理解できない制度だ。
だからだろうか、ゆるい体質の企業社会が生まれ、コスパを批判した私でさへ意味のない無駄な部分がかなりあると思っている。
意味がある無駄(本当は意味があるのだが)は許されるとしても、勝手にコスパがよい不正をおこなってしまう企業社会だ。
定年や長期雇用で理解できる点があるとすれば、事務作業などの定型的な仕事をしてくれている人たちを制度で守っていくことだろう。
たいした給与も払わないで使い捨てにしていく企業や社会に問題がないわけがない。
雇用制度を考えるなら、この点だろう。
優秀な大学出の大人が、何年たっても雇用制度に守ってもらっていること自体に疑問をもたないのだろうか。
私には、このような企業社会は気味が悪かった。
極端に言えば、事務作業などの定型業務をきちんとやってくれる人以外、自分の能力で稼ぐ自信があると思っている人たちは、契約型雇用が当然であり、常にUp or Outだろう、と私は思ってきた。
私が経験してきた企業のなかで2社を除けば、なんだか気持ち悪い企業社会だったからこそ、国の制度はどうあれ、私は自分で挑戦しながら職歴をつくってきた。
それでもありがたいことに、国の失業手当などで助けてもらいながらだったが、自分で自由におもしろく挑戦できた。
悔いなどあろうはずがない。
それが挑戦する人間の矜持だ。
国や企業の雇用制度改革(中身は年金原資と労働力の確保にみえてしまうが)は、弱い立場の人であれば雇用制度で守られるべきだが、自立した大人といわれている人たちをいつまで雇用制度で保護する必要があるのだろうか、と議論そのものがあほらしくみえてくる。
正規社員だの非正規社員だのと、企業がそのときの都合で労働力を収奪してきただけだろうから、そのつけは、国家や企業、そして国民みなで受けていくことになるだろう。
今の時代、学歴や職歴をいっている場合か。
能力ある者が企業であり、国家を引っ張ていくものだ。
そこに性別や年齢、まして定年制などの雇用制度など関係ない。
70歳再雇用制などと悠長に話している場合だろうか、とつくづく感じる。
挑戦する社会をどのようにつくるかが、先だろう。
挑戦しない社会や国家は、政治家は金(権力)に執着し、官僚は天下り(権限)に執着し、企業は補助金に執着し、経営者は地位に執着し、国民は社会保障に執着する。
挑戦することが損な社会は、誰も未来を信じないだろう。
だから、みな金に執着し、未来は失われていく。
未来がみえない社会、子供が増えていくわけがない。
70歳になろうが、いくつになろうが自分で挑戦するから、ゆかいで、おもしろく、楽しい人生になる。
単純だ。
挑戦もせず、既得権にしがみつく人たちや不満しか言わない人たちにはむずかしいだろうが。。。
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