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back to normalのNORMALって何のこと?

私は子供たちに"Nothing should be bothering you"ということがある。直訳するなら、だれにも邪魔されずに生きていきなさい。説明するなら”どんな状況下でも気にせず、やりたいことややるべき事を続ける方法を見つけなさい”というところだろうか。言い訳が嫌いな私が、どうにもならない苦しいアメリカ生活を何年も続けてきた末に見つけた信念なのかもしれない。

アメリカでは新学期がオンライン授業では始まり、夏休み前に急遽オンライン授業になった時よりも、時間設定も厳しくなり、学校側のきっちり学校をオンラインでやろうとしようとしている願いが伝わる。子供たちは、本来学校の始まる時間の8時から終了時間の14時まで、基本的にZOOMミーティングをオンにしておき、先生の監視下の元学習を続けていく。母親としては、自分が時間管理を含めた事をとやかく言う機会が減ったので、案外気に入っている。子供たちはとても柔軟で、ランチの時間は自分たち個人のSNSアカウントを使って、ZOOMランチをして楽しんでいた。小学校低学年の子供たちが、自分たちでそんなことをしながら、時間を過ごすことができるのだ。そんな姿に皆がいう”早く元に戻ってほしい”というフレーズに違和感を感じる。

学校側は元に戻るまでの辛抱、というフレーズを掲げながら、時折もし学校がオープンしたら登校しますか?というアンケートを送ってくる。親としてはいろんな家庭の理由で早く登校させたいという親、安全じゃないからとんでもないという親、と色々だ。中には学校の決め事に左右されたくないから、完全にホームスクーリングに切り替えるという親も少なくない。私は正直どっちでもいい。というより答えがない。いつ、何が安全かなんてわからない。車に乗れば交通事故にあうかもしれないけど気を付けながら毎日運転している。そんなような感覚だ。

そこで私は長女に聞いてみた。学校がオープンしたら学校に行きたい?少し前までは、早く学校に行きたい、早くいつも通りの生活がしたいと言っていた彼女も、んーどっちでもいいけど、どちらかというとオンラインのままでもいいかなと答えた。理由は学校は安全じゃないから、と。彼女曰く、マスクしても、暑いとかいって外しながらしゃべる人がいるじゃん。やっぱり安全になってから学校は行ったほうがいい気がする、と。じゃあ安全って何?

私は人々が”コロナが早くなくなってほしい”とこぼすたび、これは無くなるものではなく、一生付き合っていかなくてはいけないものだと発言してきた。むしろ、世界中の体を旅してきた2019年版コロナウイルスは、形を変えて数年後、私たちのところへやってきて、マスクどころで防げるものではなくなってしまうかもと思うのである。そんなことを考えると、過去の標準を”ふつう”ととらえること自体が間違っているのかもしれない、と。大げさに言えば、宇宙に行くのに宇宙対応の装備なしに行く人はいないように、家の外に出るときにはマスク、または酸素ヘルメット?を被るのがスタンダードという時代が来るかもしれない、と。さらに他の言い方をするのならば、現に人々はみなスマホを持ち、黒電話のみを使用している人はいないだろう。もし所有する人はいたとしてもお洒落なインテリアコレクターくらいかもしれない。あれだけスマホを嫌がっていたガラケー派の義父も今では立派なスマホ所有者だ。しつこいたとえ話を並べたが、どんなに昔に戻ろうとしてもそうさせてくれない時代の流れがあるのは確かだ、ということを最近よく考える。

こんなことを踏まえたうえで、コロナの影響を受けた今の社会に元通りに戻す作業、過去の標準に合わせる作業が本当に必要なことなのかと考える。オフィスに向かい、オフィスの中で一日中パソコンの前で過ごす。そこに意味はあるのだろうか。通勤に体力とお金を費やし、自宅で可能な作業を高額なビルをレンタルして経営する。そんな無意味な土地があるのであれば、空気をきれいにするために緑を増やしてはどうか、そのビル全体を子供たちが学ぶことのできる空間にしてはどうか。そんなことを考え出す。

そんなこと話しながら、朝ごはんを食べた今朝。最後は「学校始まる!そのおにぎりを口に入れてしまいなさい!」と余裕のない初歩的で、ダメな母親フレーズを言ったのち、静かになった居間で洗濯物をたたみながら、子供がやりたいことやすべきことを継続させてあげられるサポートとは何だろうと考えたのであった。その一つに過去の”ふつう”を見直す作業をして、未来に必要な”ふつう”は何かと時々語り合うのもいいかもしれないとおもったのである。


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