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哲学とは郷愁である

こんなタイトルの記事を開かれているぐらいですから、おそらくあなたは大なり小なり哲学に興味をもたれているのでしょう。とはいえ、なぜあなたが哲学に興味をもたれたのかは筆者にはわかりません。きっかけは人それぞれでしょうから。

けれども、これだけはわかります。何かしら人生に行き詰まり、救いを求めて哲学に伸ばした。そうではないでしょうか。

中には純粋に学問として興味をもった人もいるかもしれませんが、筆者の経験則に照らせば、そういう人はかなり稀なケースで、だいたいにおいて哲学に手を伸ばそうとする人というのは、人生が膿んでいる人です。筆者自身も例外ではありません。筆者もまた人生が膿んだ時期に哲学との出会いがもたらされた一人です。

逆は必ずしも真ならず

もちろん人生が膿んだからといって、必ずしも哲学に手を伸ばすわけではありません。むしろ、そういう人は割合としては少数派でしょう。たしかに哲学に手を伸ばす人の人生は膿んでいるものですが、人生を膿んでいる人が哲学に手を伸ばすかどうかまではわかりません。

同じように聞こえるかもしれませんが、これは論理学の基本であるところの「逆は必ずしも真ならず」というやつで、図書館には本がたくさんあるとは言えても、本がたくさんあるところが図書館かどうかはわからないのと同じ理屈です。大量に本を所持している個人かもしれませんからね。

大量に本を所持している個人といえば、筆者には人生を変革してくださった恩師と仰ぐ人がいるんですが、彼の蔵書はゆうに三万冊を超えるそうで、これは地方の小さな図書館並の蔵書数を誇ります。もちろん数がすべてではないとはいえ、個人でこの蔵書数はどう見てもマジキチです(褒めてる)。本当にありがとうございました。

話を戻して、このように逆の命題が必ずしも正しいとは限りません。現に生みの苦しみならぬ膿みの苦しみから逃れるべく、違法ドラッグや節操のないSEXに耽溺してしまったり、リスカあるいはODといった自傷行為に走ってしまう人々が後を絶ちません。最悪の場合、自死へと至ってしまうケースも散見されます。

人間に備わった自分の生命を守り発展させようとする生物的本能、すなわち自己保存の欲求を超えてくるわけですから、いかに膿みの苦しみが耐えがたいものなのかが、容易に察せられるというものです。

一周回ってトートロジー

そんな中で、あなたは哲学に手を伸ばした。他にいくらでも逃避手段はあったにもかかわらず、あなたは哲学に救いを求めた。筆者にはこの事実があなたの人間性を、何よりも雄弁に物語っているように思えてなりません。

筆者の霊感が告げるところによれば、そんなあなたは本当はとても強い人です。人間的にとても強い。それこそ哲学的に言い換えるならば、魂が巨大あるいは存在が分厚いとでもいいましょうか。

もしかすると、いろんな辛いことがあって、今はフィジカル的にもメンタル的にも弱っているかもしれません。周囲にはそんなあなたを無思慮に断罪する声で溢れかえっているかもしれません。そうした声を受けて、あなた自身もまた自分の弱さを恥じ、嘆いているかもしれません。

けれど、誰が何と言おうと関係ありません。筆者にはわかります。あなたは本当はとても強い人です。その秘められたポテンシャルを、今はまだ発揮できていないだけにすぎません。

なぜそんなことがわかるのか。わかるからわかる、としかいいようがありません。トートロジー(同語反復)で答えになっていないのは、筆者とて重々承知しています。ですがもっとも正確に、そしてもっとも誠実に答えようと思うと、こういう答え方にならざるをえないのです。

そりゃあ述べようと思えば、いくらでもそれらしい根拠を並べ立てることはできます。3つまたは5つ、あるいは多くとも7つと、述べる根拠の数を奇数にすれば、よりそれっぽく聞こえることでしょう。

しかしながら、どれだけそれらの根拠を積み重ねたところで、本質には届きません。これは個々の現象から共通因子を導き出す帰納法的な発想では、決して真理にはたどりつかないのと同じ構造です。むしろ、言葉を尽くせば尽くすほど野暮というもので、一周まわってトートロジー、そういう世界がたしかにあるのです。

哲学は学べるのか

先ほどあえて"霊感"という、ともすれば誤解を招きかねない表現を用いました。賢明なあなたのことですから、十二分に察していただいていることかとは思いますが、念の為書き添えておきますと、これはある種のミームとして用いているので半分冗談です。

が、しかしもう半分は本気です。といっても、霊能力とかそういう話がしたいわけじゃありません。これまでの経験を通じて得られた智慧を総動員させた瞬時の洞察、とでもいいましょうか。そういう意味では、わかるというよりも視える、という感覚のほうが近いですね。あれ、余計うさんくさくなったぞおい。

充満したうさんくささを換気するためにも、そろそろ話を前に進めましょう。信じるか否かは別として、この「本当はとても強い人である」というのは、あなたにとって大いなる福音です。

一方で残念なお知らせもしなければなりません。それはこのまま何の指針もなく哲学を学んだとしても、あなたのその秘められたポテンシャルが発揮される可能性はかぎりなく低い、ということです。

なぜでしょうか。理由を解説する前に、前情報として二人の哲学者の言葉を引いておきましょう。

近代哲学の祖と評されるイマヌエル・カント(1724-1804)は、こんなことを言っています。「人は哲学を学ぶことはできない。哲学することを学ぶだけである」と。また、毒舌家であり美文家としても知られるアルトゥル・ショーペンハウアー(1788-1860)は、こんなことを言っています。「哲学を学ぶことはできるが、哲学することを学ぶことはできない」と。

こうして二人の言葉を並べてみると「いや、結局哲学は学べるのか学べないのかどっちやねん。哲学と学ぶが渋滞しててややこしいわ」と、吉本新喜劇を揺り籠として育ち、学校生活そのものがNSC予備校という、実に独特かつ過酷な関西文化に慣れ親しんだ筆者としては、反射的にそうツッコミを入れたくなります。

ただ、よくよく彼らの哲学に触れてみると、実は表現が違うだけで二人とも同じことを言わんとしていることに気付きます。それはわかりやすく言い換えるならばこういうことです。

「哲学は自ら打ち立てるものである。その過程こそが"哲学をする"ということであり、一方で他人が打ち立てた哲学に触れ、参考にすることもできる。これが"哲学を学ぶ"ということである」

要するにこういうことなんですね。だったら始めからそう言ってくれよと。いかんせん歴史に名を残すような哲学者というのは、例外なく天才で真理探求にしか関心が向いていないので、そもそもわれわれ下々の者にわかりやすく伝える気なんてさらさらありません。

これが救いを求めて哲学に手を伸ばしたものの、ますます人生の路頭に迷ってしまう人が後を絶たない大きな要因の一つです。

わかりやすさの弊害

せっかく一縷の望みにすがって哲学に手を伸ばしたのに、なにがなんやらわけがわからない。そこで多くの人はどうするかというと、わかりやすい解説書を手に取ります。

これは一見まっとうなアプローチに思えますが、実はこれもまた哲学に触れることによって、ますます人生の路頭に迷ってしまう人が後を絶たない大きな要因の一つです。

巷に出回っている哲学の解説書というのは、だいたいにおいて歴史の古い順から著名な哲学者を取り上げ、その哲学者が打ち立てた哲学を噛み砕いて説明する、このような形式をとっています。あるいは特定の哲学者の解説書であれば、その哲学者が打ち立てた哲学をやはり時系列で紐解いていく、このような形式をとっています。

いずれにしろ「歴史的に」「わかりやすく」「その哲学を理解する」ために書かれているわけですね。

それらは決して悪いことではないんですが、一方で重篤な弊害もあります。こういった解説書と向き合おうとすると、カントやショーペンハウアーの言う「哲学は自ら打ち立てるもの」の大前提がいつのまにか吹き飛んでしまい、学生時代のテスト勉強のような、あらかじめ用意された答えの丸暗記に終始してしまいがちなのです。そんなもの人生にありはしないのに。

そうなると、わかったような気にはなれど、賢くなったような気にはなれど、より世界を理解したような気にはなれど、肝心要の自らの人生がなんら好転していかないんですね。こういう人は本当に多いです。

考えてみればこれは当たり前の話で、そもそも「哲学は自ら打ち立てるもの」の大前提と向き合わず、どこかに自分用にカスタマイズされたベストな答えがあるなどとという、脆弱きわまりない幻想を信じてこれまで生きてきたからこそ、今まさに人生の路頭に迷っているわけでして。

その幻想をわかりやすい解説書によって強化すれば、ますます人生が路頭に迷うのも、必定の理でしかありません。

結局のところ、真に救われるためには「哲学は自ら打ち立てるもの」の大前提と真摯に向き合うしかないのです。われわれは人生において「他人が打ち立てた哲学を正確に理解するゲーム」をしているわけではありません。あくまで「自分がより善く生きるゲーム」をしているのです。

この真実にどれだけ早く気付けるかが勝負です。人は往々にしてもっとも近道である真実から目を背け、もっとも遠回りである安易で楽そうな道を選んでしまいがちです。

しかしながら、人生に一発逆転はありません。一発逆転を夢見て貴重な時間を浪費し続ける人が圧倒的大多数の中で、ごく少数の真実に気づいた人がコツコツ地道な努力を積み重ね、最終的に真の幸福を掴み取るのです。

筆者が見るに、哲学を教える人も、教わろうとする人も、その大半があまりにもこの大前提を理解していません。哲学に慣れ親しんでいるという人で、本当に幸せそうに生きている人を見かけたことがあるでしょうか。少なくとも筆者はほぼありません。皆無と言い切っても差し支えないレベルです。

あえて語気強めで言いますが、どいつもこいつも陰気臭い面をして、精神の密室にひきこもって誰にも理解されない独り言を垂れ流し、そんな自分を祝福しようともしない世界を呪って生きています。

そんなもの、されるわけがないんですよ。そもそもの大前提を履き違えているんですから。そういう人が溢れかえっているからこそ、「哲学なんて学んで何の役に立つのか」などという、見当違いも甚だしい言説が世を闊歩してしまうのです。

道具としての哲学

他人が打ち立てた哲学というのは、言うなれば大工道具のようなものです。それらの道具を用いて、自分だけの家を建てるためにあるものです。

喧噪に疲れた時、逆境に挫けてしまいそうな時、そこに立ち返れば自分を取り戻すことができる、そんな聖域を自らの精神に鎮座させるための道具なんですね。道具が自分なのではありません。道具はどこまでいっても道具です。

そして、道具ですから多ければ多いほどよいといえますが、使えないのなら少ない道具に精通しているほうがよっぽどマシです。目的はあくまで自分だけの家を建てることですから。使えもしないたくさんの道具を見せびらかして、悦に浸るのが目的なのではありません。

20世紀最大の哲学者と評されるマルティン・ハイデガー(1889-1976)、彼は『形而上学の根本諸概念』の冒頭で、詩人ノヴァーリスの次の一文を引いています。

「哲学とはほんらい郷愁であり、いたるところで家にいたいと思う一つの衝動である」

このノヴァーリスの一文などは、まさに箴言オブ箴言だなと思います。そうなんです。哲学とは本来は郷愁、つまり「自分が立ち返るべき場所を追い求める衝動」なんです。

先述したとおり、哲学に手を伸ばそうとする人の人生は膿んでいるものですが、ではそもそもなぜ人生が膿んでしまうのかというと、この文脈でいえば帰るべき家がないからに他なりません。これまでずっと他者から半ば強引に押しつけられた家に住んでいて、違和感を抱えて生きてきたものの、とうとう耐えきれなくなったからこそ、人生が膿んでいるのです。

とはいえ、現段階では帰るべき家もありません。あったとしてもあばら屋で、しかもその場所を見失ってしまっている状態です。

筆者自身も経験がありますが、この板挟みは本当に苦しい。なんせたとえ物理的には住む家があったとしても、精神的にはホームレスなのです。この先自分はどう生きていけばいいのか、平穏な日々が訪れる時は本当にやってくるのか、絶えず襲いかかってくる不安と恐怖。当然ながら行政に頼ることもできません。

こうした精神的ホームレスから脱却する方法はただ一つ、一刻も早く自分だけの家を建てることです。何物にも揺るがすことのできない強固な家を。

それは一朝一夕で為せるものではありません。生涯をかけて徐々に、しかしながら着実に為されていくものです。そして完成へといたることはありません。

それゆえ筆者もまた現在進行形で、増築したり、解体したり、リフォームしたりしています。長年かけて工事をしてきているので、もはやかつてのように帰るべき家がなくて、途方に暮れるようなことはありませんが、工事そのものをやめてしまったわけではありません。今なお試行錯誤の毎日であり、これから先もずっとそうでしょう。

どんなに地道であったとしても、どんなに時間がかかったとしても、決して「自分だけの家を建てる」ことから目を逸らしてはなりません。辛く苦しい時ほど、人は今すぐ救われようと対処療法にすがってしまいます。が、一時的に症状がおさまったとしても、根本原因を放置しているとすぐにぶり返しますし、ますます症状は悪化するばかりです。

筆者はあなたに代わってあなただけの家を建てることはできません。それは他の誰であっても同じです。親兄弟であっても、親友であっても、あるいは主治医や教祖であっても。他の誰であってもあなたに代わって、あなただけの家を建てることはできません。

けれども、道具であることはできます。筆者がこのようなまるで一般ウケしないであろうテーマに言葉を尽くすのは、あなたにとってよき道具でありたい、そういう思いがあるからです。

自分だけの家を建てて帰るべき場所を見出し、もはや二度とその場所を見失うことはなくなった状態を、筆者は「自己との和解」と呼んでいます。

そして、ここまで読み通されたあなたのような人であれば、遅かれ早かれ絶対に自己との和解へと至り、あなただけの善を為して世界をよりよくしてくれる、そんな同志であることを筆者は確信しているのです。

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