見出し画像

ゲーマーの耐えられない幼稚さ

語気強めのタイトルで恐れ入ります。とはいえ、賢明なる読者諸氏のことですから、本タイトルがミラン・クンデラ著『存在の耐えらえない軽さ』のオマージュであることは、すでに察していただいていることかと思います。

とまあ、冒頭からいかにも賢ぶったことを言っていますが、正直にぶっちゃけますと、実際に読んだことはありません。読んでもいないのにオマージュとはどういう了見だこの野郎というのは、ごもっともな指摘なのですが、なんせ筆者は昔から小説全般が苦手でして。

何度か傑作と名高い作品にチャレンジしたものの、終始「この描写……本当に後々効いくるんか……?もしかして雰囲気だけのやつとちゃうんか……?」「え、これ誰だっけ……?だいぶ前から登場してた前提で話が進んどるぞおい……」などの雑念に囚われ、一向に物語が頭に入ってこずに脳みそをうわすべり、挫折を繰り返してきた過去があります。

唯一読み通せたのが星新一ですね。文体が平易で読みやすいし、一本一本が短くて無駄な描写は一切なく、それでいてちゃんとオチもある。さすがショートショートの神様と評されるだけあります。こういうのでいいんだよ、こういうので(超絶ウエメセ)。

そんな小説に疎い筆者でも、なぜかそのタイトルを知っていて、つい借用したくなるこのインパクトですよ。存在が軽いて。いやそんな体重みたいなノリで言われても。しかも耐えられないて。耐えろよ。

念のため書き添えておきますと、このオマージュがやりたかっただけで、別に世のゲーマーたちに憤っているわけでもなければ、世のゲーマーたちを蔑んでいるわけでもありません。あくまで感情の波は凪状態にあります。そもそも筆者自身も元ゲーマーですしね。

市民権を得たゲーム

というわけで、ゲーマーです。思えば本当に市民権を得ましたよね、ゲームひいてはゲーマーが。筆者は1988年生まれですが、筆者が学生のころなんかはまだまだ「ゲームなんてコミュ障のオタクがやるものっしょ」的な空気感が支配的だったと記憶しています。

それが今や誰も彼もが何らかのゲームをプレイしてますからね。プロゲーマーなんて職種も生まれ、羨望のまなざしを集めるまでになりました。容姿の整ったパリピが堂々と「趣味はゲームですうぇいうぇい」と公言して憚らない時代です。

なんならゲーム配信なんかしちゃったりもして。そんでもって、そのゲーム配信を見るのが趣味なんて人も生まれたりして。ゲームの悪影響が大真面目に論じられていた一昔前からは、考えられないほどの社会変容です。

ところで、なぜこれほどまでにゲームは市民権を得たのでしょうか。これはとても考察しがいのあるテーマです。

真っ先に思いつくのは、やはりインターネットとスマホの二大発明と、それらの技術を土台として生まれたソシャゲでしょう。功罪はあれど、ソシャゲがゲーマーの裾野を広げる上で、多大な影響を及ぼしたであろうことに、異論がある人はもはやいないでしょう。

電車なんかに乗るとそれを強く実感します。マジでみんな隙間時間をソシャゲに費やしているんだな~と。真剣な表情でスマホを見つめて、忙しそうに操作しているかと思ったら、だいたいソシャゲですからね。ソシャゲかよ。別に個人の自由だからいいんですけども、なんというかこう没個性的といいますか。もっとレパートリーがあってもよくね、なんて思ったりするのが本音です。

先に述べたゲーム配信なんかもそうで、インターネットの発明がなければ、そもそも配信文化も生まれなかったわけです。このようなテクノロジーの進化という視点がまず1つあります。

人類総ひきこもり時代

もう1つ重要な視点があると筆者は考えていて、それは人類総ひきこもり時代についてです。

われわれが生きている今まさにこの時代は、近代の後すなわちポストモダンと表現されます。そしてポストモダンにおける「大きな物語の終焉」を喝破したのが、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールでした。これはどういうことかというと、平たく言えば「みんなが共有できる価値観がなくなったよね」ということです。

たとえば「科学による社会の進歩」を考えてみましょう。これは近代社会を支えた大きな物語の1つですが、はたして現代社会を見渡してみてどうでしょうか。この大きな物語は大きな物語たりえているでしょうか。少なくとも筆者の眼にはとてもそうは見えません。

そもそも科学の発展に関心がない人たちが大半を占めますし、ましてや科学がどのように社会を進歩させるかなんて、いったいどれだけの人がそれを考えて生きているのかという話です。むしろ、もはや酒の肴として笑い飛ばすことはできず、思わず真顔になってしまうほどに、科学的態度とは対極に位置するスピリチュアル界隈や陰謀論界隈が、異様な盛り上がりを見せているのが現状でありましょう。

このように大きな物語が終焉を迎えるとどうなるのかというと、人は精神の密室にひきこもるようになります。これは一見すると因果関係が不明瞭で、論理が飛躍しているように聞こえるかと思いますので、そのロジックを丁寧に紐解いてみましょう。

まず大前提として、大きな物語が失われると人々は新たな物語を欲します。ここでいうところの物語とは、社会を支えると同時に個々人の人生を支える、言わば土台のようなものだからです。その土台が本当に土台として機能しているかはさておき、土台なき人生がもたらす不安に普通、人は耐えることができません。すなわちそれは自己のアイデンティティを見失ってしまっている状態に他ならないわけですから。

この手の不安というのは、哲学の世界では存在論的不安と呼ばれるもので、直接的に生命が脅かされる不安を除けば、数ある不安の中でももっとも根源的で、もっとも耐えがたく、そしてもっとも克服が困難なものです。

しかしながら、すでに大きな物語は失われてしまっているわけですから、乱立する小さな物語から自分に最適な物語を選び取る必要がでてきます。

これは言うは易く行うは難しの典型で、実際はとても過酷な作業です。己を知り、世界を知り、自由を行使して最適な物語を選び取らなければなりません。そしてその負荷に普通、人は耐えることができません。物語がない不安に耐えることができず、かといって自ら物語を選び取る負荷にも耐えられない。するとどうなるか。身動きがとれずに人は精神の密室にひきこもるのです。

かくして現代社会には、ひきこもりが溢れかえるようになり、めでたく(?)人類総ひきこもり時代が訪れた、というのがおおまかな筆者の時代認識です。

淘汰圧ならぬ逃避圧

先述したスピリチュアルや陰謀論というのも、小さな物語の一種です。では彼らは自分に最適な物語を選び取った人たちなのでしょうか。

あるいは定年後に組織人としてのアイデンティティを失い急速に右傾化、いわゆるネトウヨとして周囲を困惑させるおっさんたちは、自ら最適な右翼思想という小さな物語を選び取った人たちなのでしょうか。

いいえ、違います。一見すると、彼らは何らかの小さな物語を選び取り、その小さな物語にコミットして活動的になることで、ひきこもりを脱しているかのように映ります。が、しかし筆者が見るに彼らは、あいかわらず精神の密室にひきこもっています。

これはどういう状態なのかというと、たとえるなら精神の密室の中で、スクリーンに映し出されたその小さな物語の映画を見ているような状態です。映画を見て熱狂し、自分もまた映画の中の登場人物であるかのように錯覚しているものの、実際はというと精神の密室から一歩も外にでていないのです。

精神の密室内においては、常に淘汰圧ならぬ逃避圧がかかります。そして淘汰圧をくぐりぬけた種が進化してきたように、逃避圧をくぐりぬけ勇気をもって精神の密室から外界へと踏み出すことで、人間の精神性は進化を遂げます。

彼らはその逃避圧に屈して、言うなればアイデンティティ・ポルノのスクリーン上映に逃げたのです。なぜ彼らが言いたいことを言って、聞きたいことだけを聞き、自ら目を閉じ耳を塞ごうとするのか。あいかわらず精神の密室にひきこもっているからです。ひきこもって四六時中アイデンティティ・マスターベーションをしているのです。

本当の意味で他者と対話するためには、まずもって精神の密室から外に出なければなりません。そして外に出られていないからこそ、彼らとはまるで対話が成り立たないのです。

想像してみてください。真っ暗な部屋で一人で孤独にずっとAVを見てシコってる人、誰がそんな人と積極的にコミュニケーションをとりたいと思いますか。どう見てもキモすぎですし、まともじゃないでしょう。彼らがやっていることは、まさにこういうことです。肉体的に逃避しているのか、それとも精神的に逃避しているかの違いはあれど、本質的には何も変わりません。

そんな彼らの姿を見て、拭いがたい違和感や嫌悪感を覚える人というのは、すでに精神の密室から外にでている人です。精神の密室から脱ひきこもりした人は、それがいかに幼稚で愚かなことなのかが、直感的に理解できます。その直感的な理解こそが、拭いがたい違和感や嫌悪感として表出するのです。

推し文化の興隆

このように人は精神の密室内での逃避圧に屈すると、何かしらの逃避手段に縋りつくようになります。逃避圧をくぐりぬけ精神の密室から外にでて、自分に最適な小さな物語を選びとるのは、容易なことではありません。

スクリーン上映以外にも逃避手段はいろいろあります。たとえばキャバクラやホストに沼るのはその典型です。どれだけお金を使って派手に遊んでいるように見えても、どれだけ華やかに映ろうとも、本質的にはそういう人はひきこもりです。ひきこもりとひきこもりによる共依存。そりゃ登場人物全員が一人の例外もなく不幸だわって話です。地獄への道はひきこもりで舗装されている。

これの亜種としては、昨今流行りの推し文化もそうですね。推し文化の興隆はまさに人類総ひきこもり時代を象徴しています。もちろん何かあるいは誰かを推すという行為が、必ずしも逃避圧に屈した結果だとは考えていません。精神の密室から外に出て、自己を確立した上で推している人もいるでしょう。

けれども、割合でいえばそういう人は稀です。大多数の人は逃避圧に屈した結果として、推し文化に加担しています。それも無自覚に。

逃避手段としての推しと、自己実現としての推しは、まったく意味が異なります。前者は自分から目を背けて精神の密室にひきこもるための推しで、後者は自分と向き合って精神の密室の外を冒険するための推しです。売れっ子キャバ嬢を推しているのか、それとも売れない地下アイドルを推しているのか、そんなのは些末な話でしかありません。推す対象はどうでもいいっちゃどうでもいいのです。

その推しという行為を通じて、自己と真摯に向き合えているかどうか。これこそが推しを語る上で何よりも重要な論点であり、もっとも価値のあるものなのです。

莫大なお金と貴重な時間を注ぎ込んで、リターンらしいリターンがまるで見られない推し行為に、なんてバカなことをと嘲笑う人も多いでしょう。けれど、その人がその推しを通じて自己と真摯に向き合い、自己実現へとまた一歩近づいたならば、それは何よりのリターンといえます。

ゲームとマスタリー

さて、長くなりましたが、ここらでタイトルの伏線を回収していくとしましょう。筆者はかつての自分も含めてゲーマーという人種は、おおむね幼稚で愚かである、と考えています。

なぜそう言えるのでしょうか。ゲームは逃避手段として非常に優れていて、ひきこもりと相性が抜群だからです。なんといってもゲームはコストが安い。お手軽に現実逃避ができてしまいます。ここでいうところのコストとは、金銭的コストだけでなく、あらゆるコストを含んでいることに注意してください。

たとえばスクリーン上映には、放映されている映画を理解するための、知的コストがかかります。キャバクラやホストには、金銭的コストは言わずもがな、コミュニケーション的コストが発生します。お店に出向く上で移動コストもかかってきます。これはおおむね推し文化も同様です。ゲームにもそれらのコストが発生する場面はありますが、総じてそれらのコストが安いのです。

なんだかコストコスト言いすぎて、ゲシュタルト崩壊が起きつつありますので、結論を急ぎましょう。多くのひきこもりが同時にゲーマーであるのは、ここまで述べてきたような背景があるからです。

これはプロゲーマーとて同じです。むしろ、プロゲーマーのほうがその傾向は顕著かもしれません。元々が逃避手段として相性抜群のゲームでプロになり、プロである以上どうしても一定の結果は求められるわけですから。この結果主義もまた自分から目を背けて、ますます精神の密室にひきこもってしまう要因の1つです。

とはいえ、もちろんすべてのプロゲーマーが幼稚で愚かだと言いたいわけではありません。たとえば梅原大吾さん(以下、敬称略)なんかは、どこか哲人のような雰囲気を纏っていて、著書やインタビューからは成熟した精神性をうかがわせます。これは彼が逃避手段としてゲームをプレイしているのではなく、自己実現としてゲームをプレイしていることを示唆しています。

梅原大吾がゲームを通じて、藤井聡太が将棋を通じて、大谷翔平が野球を通じて自己実現を果たしているように、何かしらの対象に没頭して自己が成熟していく過程をマスタリーといいます。マスタリーの道を歩むことで、人は精神の密室から外にでて、本当の意味で自己を見出すことができるのです。

梅原大吾がマスタリーの道を歩んで自己実現を果たし、世の多くのゲーマーたちがマスタリーの道を歩めずにひきこもっているのはなぜか。彼が才能に恵まれていたからでしょうか。それもあるにはあるかもしれませんが、もっと重要なことがあります。

ずばりそれは「対象を純粋に愛せているかどうか」です。これこそがマスタリーの道を歩むことができるか否かの分水嶺です。その意味では、別に下手の横好きであったとしても、マスタリーの道は歩めるのです。

結果主義がマスタリーの道から遠ざけるのは、純粋にそれを愛せていないからです。結果すなわち見返りを求める愛が、純粋な愛だといえますか。結果ではなく過程そのものに没頭する、それが純粋に対象を愛するということです。そして対象を純粋に愛すれば愛するほどに、自己理解もまた深まっていくものなのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?