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Mrs. GREEN APPLEに見る表現の自由

前回の日記で、Mrs. GREEN APPLEによるコロンブス炎上事変について触れた次第なんですが、世間の反応をウォッチしてみると、表現の自由と絡める形で彼らを擁護している人を一定数見かけました。いわく「彼らがどうコロンブスを解釈して曲にしようが表現の自由だろ」と。

そりゃあ権利だけでいえばそうです。というか、実際にその表現の自由を行使して、彼らは今回のMVを世に出したわけですよね。結果的にはすぐさま引っ込めることになったものの、それは別に公権力によって検閲されたとかそういうことではなく、炎上というある種の社会力学によるものであって、表現の自由が侵害されたわけではありません。

極論をいえば「誰がなんと言おうがこれが自分たちの音楽です」を貫き通せばよかったわけですから。どれだけ世間からヘイトを浴びようとも、どれだけファンが離れようとも、どれだけタイアップキャンペーンが台無しになろうとも、です。

制約の中でこそ個性は際立つ

それに表現の自由を持ち出すならば、今回の件で誰よりも表現の自由をないがしろにしたのは、彼ら自身だと思いますよ。

表現の自由について議論しようとすると、どうしてもどこまでそれを認めるべきかの話に終始してしまいがちです。もちろんそれはそれで大事な議論なんですが、筆者は今回の件をまったく別の視点で捉えていまして、それは一言でいえば「制約の中でこそ個性は際立つ」というものです。

ちょっと考えてみてほしいんですが、たとえばサッカー。あの選手はドリブルにキレがあるとか、ロングシュートの成功率が高いとか、そういったサッカー選手の個性って、サッカーという競技ルールの中だからこそ際立つわけですよね。好き放題に手を使ってみたり、ゴールポストを動かしたりしていては、そもそもゲームが成り立ちません。

それは単にルールを理解できていない人です。競技ルールという制約があってはじめて、選手の個性が際立つわけですね。

これはアーティストも同じです。むしろ、スポーツよりもルールが曖昧な分、より「何を制約としているか」がシビアに問われます。いくら表現の自由が与えられているからといって、自らに何の制約も課さずに創作していては、確固たる個性が宿った非凡な作品なんて生み出せやしません。

芸術作品においては、制約をあえて破りにいく作風もありますが、それも制約を明瞭に認識しているからこそできる芸当なのであって、逆説的にいえばこれもまた制約を課しているといえるのです。

このように個性を表現することを生業とするアーティストにとって、与えられた表現の自由に甘んじることなく、いや表現の自由が与えられているからこそ、自らに課した制約のもとで個性を表現することが重要となってくるわけです。

自由と制約の非対称性

しかしながら、はたして今回の件を見るに彼らMrs. GREEN APPLEは、そうした制約と真摯に向き合えていたのでしょうか。コロンブスの社会的評価の変遷、大航海時代の歴史的背景、植民地主義や西欧中心主義、こうしたものはすべて自らに課す制約の候補となりうるものです。

ここからは特にファンの方々はブラウザバック推奨となりますが、残念ながら筆者にはとてもそうは思えません。まったく向き合っていなかったとまではいいませんが、ろくに向き合っていなかったんだろうな、と。

これはMVのキーワードとして挙げられていた「年代別の歴史上の人物」「類人猿」「ホームパーティー」「楽しげなMV」からも推して知るべしですし、何よりも作品のクオリティがそれを雄弁に物語っています。正直に言いますと、MVを見て「これ、学芸会の出し物か何かかな」と思いましたもん。それぐらいそもそも作品としてのクオリティが低い。

歌詞を深読みしてエクストリーム擁護している人も一定数おられるようですけど、こうした制約と真摯に向き合えていないからこそ、学芸会の出し物と化してしまっているわけですから、個人的には歌詞についてもそこまで深読みするほどの価値はないように思います。歌詞だけめちゃくちゃクオリティが高いというのは、やはり考えづらいですから。

そういえば歌詞で思い出した。歌詞に「炭酸の創造」とありますけど、これってコカ・コーラとのタイアップキャンペーン由来なんでしょうか。だとしたら、そのタイアップキャンペーンという制約とも、ろくに向き合えていなかったことになりますね。炭酸の創造はいくらなんでもPR露骨すぎでしょう。意味もわかんないですし。炭酸を……創造……?ちょっと何言ってるか分からないです。

扱うテーマによって制約を課す難易度は変わります。その中でもコロンブスは、最上級に位置するものです。筆者の体感でいえば、ナチスやアウシュビッツがSだとすれば、コロンブスはA+といった感じでしょうか。内容的には十分Sだといえますが、やはり近現代のほうがインパクトは大きいので、そのへんを考慮してA+です。

にもかかわらず、こうした自由と制約の関係性をまるで理解できていない彼らMrs. GREEN APPLEは、よりによってコロンブスを選んでしまった。この「制約の上で個性を表現するアーティストとしての力量」と、「テーマが要求する制約の難易度」という、ある種の非対称性があのお粗末なMVを生み、今回の炎上へと至ってしまった、というのが筆者の見立てです。

実はこれ、かの大哲学者カントも似たようなことを言ってるんですよね。カントは「自らが定めた規律に従うことで自由になれる」といった趣旨のことを言っているんですが、これもまた今回の話に通底するものだと思います。なんせ自由が与えられているからといって、好き勝手に振る舞うのが自由ではないということです。

筆者が本稿で伝えたかったのは、あくまでこの自由と制約の関係性だったんですが、説明の都合上(と多少の個人的な心情もあいまって)、結果的に彼らをこき下ろす形となってしまいました。とはいえ、まったく感情は込めていません。筆者なりに言葉を選んだつもりです。彼らが今回の件でキャンセルカルチャーにまみれて、表舞台から消えることを望んでいるわけではないことは、はっきりと明言しておきたいところです。

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