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選挙に行くべき"でない"理由

周知の通りわが国日本は民主主義国家です。しばしば世界で最も成功した社会主義国家なんて揶揄されますが、実態はさておき少なくとも表向きは民主主義国家です。

〇〇主義というのは、わかりやすく言い換えると「〇〇がいちばん大事」とする考え方のことですから、民主主義は民主すなわち国民がみんなで国のあり方を決めていきましょうよ、とする考え方のことです。こういう考え方で国は運営されていますから、たとえば選挙においては所得や地位などに関係なく、一人一票の権利が平等に与えられています。

民主主義の前提条件

このように聞くと、いかにも平和的で公正公平な素晴らしい制度のように思えます。独裁政権下では、そんな権利は与えられませんからね。ところが事はそう単純ではありません。民主主義がきちんと機能するためには、次の3つの前提条件が必要とされています。

1.国民は少なくともコイントス以上の確率で正しい選択肢を選べる理性をもっている
2.その理性を周りに流されることなく行使することができる
3.それらの正しい選択を適切に集約する合理的なルールによって運営されている

はたしてどうでしょうか。これらの前提条件は現在の日本で立派に成立しているでしょうか。残念ながら筆者にはとてもそうは思えません。1や2を満たす国民がどんだけいるのかという話で、そんな人はごくごく少数派でしょう。

人間にはヒューリスティックと呼ばれる認知バイアスがあります。思考のショートカットと言い換えるとわかりやすいかもしれません。たとえば容姿がいい候補者ほど、より多くの票を得られることがわかっていますが、これはヒューリスティックによるものです。「これだけ容姿がいいということは、政治家としても優れているんだろう」と、半ば自動的に判断するわけですね。

こうした様々なヒューリスティックが人間には備わっていて、それ自体は別に悪いことではありません。たしかに精度は落ちてしまいますが、一方で素早く判断できるメリットもあります。ヒューリスティックを抜きにして、すべてを慎重に吟味していたら、とてもじゃないですが日常生活なんて送れやしません。進化戦略上有利だったからこそ、われわれにはヒューリスティックが備わっているのです。

しかしながら、こと選挙においてこのヒューリスティックは、正しい候補者を選ぶ上での弊害にしかなりません。理性を存分に働かせ、各候補者の主張を客観的に比較検討する必要があるからです。にもかかわらず、ヒューリスティックに突き動かされ、またヒューリスティックに自分が突き動かされていると自覚することもないままに、投票している人が大多数を占めます。それも同じ一票の重さで。もっと言えばその選択も、周りに流されてころころと変えるのが大衆です。

コイントス以上の確率といいますが、こうなってくると、もしかしてコイントスで決めたほうがマシなんじゃね、とすら思えてきます。猿のダーツ投げならぬ国民のコイントス。冗談で笑い飛ばせないのが怖いところです。嫌だな~怖いな~。

さらにさらに、ですよ。そんなことはありえませんが、仮に1と2の条件を完璧とはいわないまでも、おおよそ満たしたとしましょう。それでも今度は3で盛大に躓きます。なぜなら投票システム自体がパラドックスをはらんだものだからです。投票システムによって適切に民意を集約できるというのは幻想にすぎません。

この種の投票システムのパラドックスを喝破したのが、18世紀の社会学者コンドルセで(コンドルセのパラドックス)、20世紀後半に経済学者ケネス・アローによってより一般的に定式化(アローの不可能性定理)されました。そして、今なおこのパラドックスを乗り越えることはできていません。

民主主義は最悪の政治形態

要するに何が言いたいのかというと、民主主義はそもそもまともに機能しない建前だけはご立派な茶番である、ということです。

それでもなぜ民主主義が採用されているのかというと、他にマシなものがないからです。この手の話をする際は、イギリスの元首相チャーチルの言葉を引くまでがセットで、もはやある種の伝統芸能といえますので、ここでもその様式美に倣っておくとしましょう。

これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。-ウィンストン・チャーチル

下院演説 (November 11, 1947)

歴史的に見ても、これまで民主主義はあまり評価されてきませんでした。古代ギリシャの時代までさかのぼってみると、哲学者プラトンは民主政治は衆愚政治に他ならないとし、優れた哲学者である哲人王が統治する哲人政治を思索しています。同じく古代ギリシャの哲学者アリストテレスも、民主政よりも王政や貴族政を高く評価しています。

歴史的には、このような一人の優れたリーダーもしくは、少数のエリートが統治する政治形態のほうが望ましいとされてきたのです。

ところが、これはこれで問題があります。そりゃあプラトンのいうような哲人王が統治すればうまくいくのかもしれませんが、じゃあその哲人王とやらをさっさと屏風から出してくださいよという話で。仮にある時代のある地域に哲人王が生まれたとしても、その後も哲人王が生まれ続けて統治してくれる保証なんてどこにもないわけで。とどのつまりこの構想は、現実になんら力をもたない理想論にすぎないのです。

いえ、なんら力をもたないは正確な表現ではありません。力をもたないだけならまだいい。実際はその力学が悪用されることによって、血塗られた惨劇の歴史が刻まれてしまったのですから。これはヒトラーやスターリンの名を思い浮かべてもらえれば、誰もが頷くところかと思います。

チャーチルが言うように、民主主義は最悪の政治形態です。けれど、少なくとも最悪の選択肢を選ばないことだけはわかっています。もはやそれだけが民主主義の唯一のメリットと言い切ってしまっても差し支えないほどに、理想とはかけ離れた政治形態です。

言ってしまえば、第二のヒトラーやスターリンを生み出さないために、しかたなく採用しているにすぎないのです。決して民主主義が優れた政治形態だからではありません。し、民主主義が公正公平だからでもありません。それらが幻想にすぎないのは、これまで見てきたとおりです。

合理的な政治との向き合い方

良識ぶっているのか、それともポジショントークなのか、あるいは茶番であることに気付いていないのか、いったいなんなのかは筆者にはわかりかねますが、世の多くの大人たちは「国民として参政権を行使すべき」と声高に叫びます。

しかしながら、合理的に考えて選挙に行くべき理由なんてありはしません。合理的に考えれば「政治については、自己の利得に影響する範囲のリソース投下にとどめ、後は自分の人生に集中して生きる」一択です。

SNS上には、なんやかんや事あるごとに政治に文句を垂れる御仁であふれかえっていますが、なぜ彼らの人生が行き詰まるのか、あらゆる資本的に困窮へと追い込まれるのかというと、そもそものリソース配分がおかしいからです。リソースが潤沢にあるのならともかく、なけなしのリソースを茶番に全ツッパしてたらそりゃそうなります。その台、設定1が確定してますし、どう見ても釘がっちがちで回らないですよ。

彼らの存在は、政治へリソースを割くことの非合理性を雄弁に物語る、何よりの傍証といえるでしょう。投下したリソースに対してリターンが見込めない、すなわちROI(Return on Investment:投資収益率)が地を這うレベルなのですから、必然的にリソースの投下をできるだけ抑えるのが合理的な戦略となります。

百歩譲ってリターンがないだけならまだしも、政治への過度なコミットは期待心を誘発し、他責思考を助長してしまう弊害もあります。この他責思考というやつは本当に厄介な代物で、思うに人生を蝕む思考ツートップに入ります。ちなみにもう1つは一発逆転思考です。

他責思考というガンに蝕まれ、ただでさえとぼしいリソースを茶番に全ツッパし、いつかは自分も救われるはずだと一発逆転を夢見ている。いや、もうそれ困窮の数え役満なんですよ。筆者に言わせれば、彼らが困窮へと追い込まれるのも当然です。水が上から下に流れるがごとく、困窮すべくして困窮しています。これは自己責任論うんぬん以前の話です。

唯一反論できるとしたら、全員がこうした合理的戦略をとってしまうと、全体として不利益を被ってしまうことでしょうか。民主主義そのものが破綻してしまいますから。部分を最適化しても全体が最適にならない、つまり合成の誤謬が起こってしまう。ゲーム理論でいうところの囚人のジレンマですね。

ただ、この反論の脆弱なところは「あなた個人が選挙に行くべき理由になっていない」ことです。これは前述した一票の重み問題にもつながってきますが、あなた一人が投票に行こうが行かまいが、民主主義の破綻にはなんら影響を及ぼしません。理論上、たしかにあなたの合理的選択は、民主主義の破綻を引き起こす1つの要素ではあるものの、その効果が限りなくゼロ、すなわち近似ゼロ効果なのです。

一方で前述した「政治については、自己の利得に影響する範囲のリソース投下にとどめ、後は自分の人生に集中して生きる」は、あくまであなた個人の人生について話しています。あなた個人が自らの可能性を開花させ、自分の人生がよりよくなり、ひいては社会的にもよい影響を与える、そういう現実的な戦略について話しています。この目線の違いはものすごくでかい。それゆえにこの手の反論はいまいち説得力に欠け、現実に人を動かさないのです。

誤解しないでほしいのは、筆者は日本の行く先を憂いて政治に情熱を燃やす人の思いを、嘲笑いたいわけではありません。それはそれで尊いものだと思っています。きっとその人の人生には必要なプロセスなのでしょう。そういった宗教的信仰にも似た情熱は、合理性だけで測れるようなものではありません。また測るべきものでもないでしょう。

個人的には政治に何の期待もしてませんし、各々が自分の人生に集中したほうが、よりよい社会を形成していく上で、よほど効果があるだろうと考えています。ので、別に政治に関心がないのであれば、合理性のみで判断することを推奨している次第です。

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