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酒と仮面(6)

                                                              四

 伊賀利が店にやってきた。酒は控え、サラダと鶏のむね肉を食べていた。私が挨拶すると、彼は会釈で返した。沙耶ちゃんが
「復帰戦決まりましたね」
と言うと、彼は
「またあのメキシコ人だな。親父と同じカウンターを持つ男。奴のカウンターを封じて、俺は親父を超える」
と言った。私が
「応援しに行きますよ。親父さんも沙耶ちゃんも行きませんか?その日は店を閉めて」
と言うと、親父さんは
「俺はテレビで見るからいいよ。やるんだろ?テレビで」
と言った。その日は伊賀利のジムの先輩が世界戦を行うので、その試合が早く終われば、伊賀利の試合も放映されるということだった。
「多分先輩は一ラウンドでノックアウトするだろうから、俺の試合も映るだろう」
と伊賀利は言った。彼の先輩は暗黒の毒ガスと恐れられる選手で、相手は何が起きたか分からないうちに昏倒してしまうので、こう呼ばれるようになった。
「じゃあ私も店で見る」
と沙耶ちゃんは言った。
 伊賀利は何か言いたそうな目で沙耶ちゃんを見た。しかし何も言わなかった。黙って鶏のむね肉を食べていた。私が
「そうか、じゃあ僕は一人で見に行きますよ」
と言った。伊賀利はそれには答えず、じっと目の前にあるらっきょうを見ていた。そして立ち上がり、トイレへ入った。やがて出てくると彼は、沙耶ちゃんに向かって
「すみません、カメラ回してもらえますか?」
と言った。沙耶ちゃんは戸惑う様子でスマホをレンジに固定し、動画の撮影を始めた。
 伊賀利は間宮になった。
 大将に向かって、
「大将、今度の試合に勝ったら、奥さんを俺に下さい」
と言った。大将は
「何言ってやがんだ。静江は俺の妻だぞ。くださいとはどういうことだ」
と返した。間宮は
「正直言って、大将と静江さんは年が離れすぎている。話も合わないし、見た目も釣り合わない。不自然だよ。二人はもっと自分に合う人を見つけるべきだ」
「大きなお世話だよ。俺は静江と愛し合っているんだ。何にも知らねえおめえが口を出す問題じゃねえ」
「知ってますよ。こうやって二人を見ていれば分かる。そこに愛はない。あるのは大将の見栄だけだ」
「この野郎。言いたいこと言いやがって。静江、お前も何とか言ってやれ」
「全く唐突に何を言い出すのかしら。ボクシングに勝つことと私を奪うことと何の関係があるの?私は勝利者トロフィーじゃないわ」
「あんたはトロフィーだよ。俺にとってはベルトよりもほしいトロフィーだよ。静江さん、俺はあんたが好きなんだよ。好きで好きでたまらないんだよ。頼むよ。勝ったら俺と結婚してくれ」
「もうやめて。そんなことできるわけないじゃない。帰ってよ」
「帰れこの野郎。二度と来るんじゃねえ」
 間宮はカウンターに金を置き、
「俺は本気なんだ」
と言った。店を出た彼に向かって大将が塩をまいた。戸を閉めた大将は
「何だっていうんだ」
と言った。沙耶ちゃんが動画を止め、一息つくと、
「あぜん…」
と言った。親父さんは
「練習で追い込まれてるのかね。何か発散したかったとか」
と言った。沙耶ちゃんは
「よく分からないけど、面白い人ね」
と笑った。私は愕然としていた。奴は本気だ。本気で沙耶ちゃんを獲りに来ている。奴の目を見たか?狼だ。その狼が、芝居を利用して沙耶ちゃんを私から奪いに来ている。知恵を付けた、狼が。

今日のラクダの食事は?