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学校の苦しさからリアリティが消えたらいいのにってはなし

なるせです。オタクをしています。オタクには学生時代になりました。

最近、とても久しぶりに当たりの小説を読むことができました。
青山美智子さんの「猫のお告げは樹の下で」という作品です。

猫のお告げは樹の下で/青山美智子

この作品は、タラヨウという傷をつけると痕が残る葉っぱを持つ樹がある神社で、ミクジと呼ばれる神の使いのような猫が困った人たちにお告げをくれる作品です。
短編集で、それぞれの話の主人公がなにかしらの困りごとを抱え、そして神社に来ることになり、そこでミクジからキーワードの書かれた葉っぱをもらいます。
キーワードから各話の主人公たちは日常を見直し、困りごとを解決しようとします。

5作品目にあたる「マンナカ」は、転校生になったものの新しいクラスになじめい少年・深見が主人公です。
小学生の深見は、苔が好きなのですがそのちょっと変わった趣味もまたクラスメイトからのいじりの対象になってしまい、担任も頼りにならず深見の居場所はどんどんなくなってしまいます。
また、苦しんでいるのは深見だけでなくて、別のクラスの先生である山根先生もストレスから朝礼で倒れてしまいます。

小学生の子どもながらの純粋さと残酷さが読んでいて本当に苦しい作品でした。
周りの大人の頼りなさと、親の理解のなさとなにもかも苦しく、保健室の先生だけが本当に救いになりました。
深見の目線になれる作品です。

最後は希望の持てる終わり方だったんですが、途中が苦しすぎて印象に残ったけど、好きだなと手放しで言えない作品になりました。

学生時代、自分のぎこちなさとか居心地の悪さを本に逃げていた記憶のある人は本当に読んでて苦しかったんじゃないかなと思います。
わたしはその逃げ道がアニメだったわけですが、それでも学校ってなんであんなに苦しいんだろうな。
記憶を持ったまま過去に戻りたい?みたいな質問にも絶対NOと答える程度には学校行きたくなくて、学校でしか吸えない吸いたくない空気があると思うんですよね。

ただ、学校って現代日本の教育において小・中は義務教育、高校も実質的に義務教育となっていて共通認識があるから、作品で使われることが多いですよね。
湊かなえの「告白」朝井リョウの「桐島、部活やめるってよ」とか、自分の好きな作品を思い返しただけでもすぐ学校が舞台の作品は出てきます。
アニメでも学園モノというおおきなジャンルがあるくらいには学校というのは舞台にされやすいです。

学校にはとても強い二面性があって、行事ごと、恋愛、友情といったキラキラしたものと、いじめ、カースト、試験などの順位付けなどのドロドロしたものがあるので作品として面白くしやすいんですよね。
小学校は6年間、中学校は3年間、高校も3年間といられる時期が決まっていて、その期限付きの期間っていうのもまた「エモ」になるんですよね。
作っている人も、作品を見る人も多くが学生を終えた人になっていたりするので、学生時代の追体験や叶わなかった青春を作品に見るのは当然なんですよね。

ただ、そこで学生を文字通り卒業した大人たちはいいけど、今この瞬間にもクラスで苦しんでる学生たちはどうなのよと。
大人がもし、いじめも含めて作品として面白くなるって思っていたら、現状は何も変わらず苦しむ学生たちがずっと消えないってことですからね。

学校ってこうだよね、楽しい行事の裏でいじめがあったりしたけど、それも含めて青春だよね。
って大人たちが終わらせてしまったらなにも解決しないままだからね。

って思うと、学校のダークな部分も含んだエモーショナルがなくなってしまえばいいと思ったりはする。
「わしらの頃は、うわばきに画びょうが隠されていてねぇ~…」
「おばあちゃんまた変な話してる~!いじめ?ってやつでしょ!そんなの今はないのにね、ははは」
みたいな世界が来てほしいってことですよ。

戦争モノにリアリティを感じられない現代の若者のように、いじめにもリアリティを感じなくなれたらいいのになって思ったりしたって話です。
リアリティがなくても面白くできるってことはもちろんあるから、また新しく面白い作品に出会えたらいいなと思います。

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