繰り返し、踊り

我々は、ともするとただ習慣によって外在化の罠にとらわれてしまう。
日常は繰り返しである。いや、我々は日常を繰り返しにしてしまった。月火水木金土日、とすぎればまた月曜日がくる。
繰り返しが意味を要請する。繰り返しは退屈だ。気をつけないとすぐに意味が生成し、我々の生活はがんじがらめになってしまう。

繰り返しはどこから来るか。おそらく繰り返しは自然現象である。我々はエネルギー節約の原理に従って、言い換えれば怠惰から、繰り返す。我々の身体を貫くエネルギー節約の原理は恐ろしいほど厳密である。我々はほとんどの時間において、ただ、前にやっていたことを反復するしかできない程のエネルギーしか持ち合わせていない。そして、その慰めに残りのエネルギーを言い訳に使う。つまり、意味を考えることに。
ニーチェは正しい。ニヒリズムは健康の徴候であり得る。エネルギーの有り余った人間、またはたまにでもそれが暴発してしまうような人間、が繰り返しを打ち破る。

この打ち破り、としての踊りがある。原初の、始まりとしての踊り。とりあえず、体を動かす。あるいは動いてしまう。意味性に吸着していたエネルギーを体に通すこと。

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