鬱。漠然とした不安。眠れない夜。何となく辛い、痛い。焦り。そんな時。 ふと気づく。今の状態に気づく。何だこれは、と。それまで、そこから逃げていたそのものに気づく。そして、本当にそれを直視してみる。すると、そこにあるのは何であるか。 実は、鬱も不安もない。ただ、動きがある。あるいは動きの萌芽、動き出したいという要求がある。 少しでもこの動きを捉えたら、ただそのままに。体が動くに任せ、声が出るに任せ。心も動き出す。息を吸い、吐く。げっぷが出、あくびが出、涙が出て、最
思考は、その時行っている思考が絶対的な視点からなされている、という幻想によって維持される。 思考によって思考を扱う時、この特性が最も顕著に現れる。「思考とはこのようなものだ」(1)という言明が、まさに思考そのものであり、そこには再帰的な構造があるが、1という思考はその構造から自らが逃れているということを前提としている。 これを思考内幻想とよぼう。 生活の中に思考内幻想を信ずる時間と信じない時間がある。 我々は常に未知のなにかに突き動かされて行動している。思考内幻想はこ
我々は、ともするとただ習慣によって外在化の罠にとらわれてしまう。 日常は繰り返しである。いや、我々は日常を繰り返しにしてしまった。月火水木金土日、とすぎればまた月曜日がくる。 繰り返しが意味を要請する。繰り返しは退屈だ。気をつけないとすぐに意味が生成し、我々の生活はがんじがらめになってしまう。 繰り返しはどこから来るか。おそらく繰り返しは自然現象である。我々はエネルギー節約の原理に従って、言い換えれば怠惰から、繰り返す。我々の身体を貫くエネルギー節約の原理は恐ろしいほど厳密
なぜ体系的な文章が不可能なのか。 僕にとって、書くことは即興演奏のようなものだ。長大な曲の作曲が不可能なように、僕には体系的な文章を書くことができない。 体系的な文章というのは、計画なしには書けない。目次を先に作り、事前に決めた大まかな内容のイメージにしたがって文章を書くわけだ。 つまり、その文章を書いているその日の身体、精神の状況は無視されることになる。目の前の状況から離れ、意図的にイメージを思い出さなければならない。この意図、が決定的にまずい。 この意図、というのは世界
芸術について 芸術は全てである。全てが芸術に含まれる。 芸術においては全てがゆるされる。 そのうえで、、、 芸術が苦痛を表現するとき、それは美しくなる。 そして、芸術がより根源的な苦痛を表現するとき、我々の経験の全体はいよいよ美しくなる。 美について 美は、感性の指標になる。美は「ここにはこのような感性がある」という目印である。 我々は、美におびき寄せられるようにして、ある感性から感性へと移動し、精神を変化させていく。 我々の経験の全体が美化されうる、我々が生をただその