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言語と写真について  

他人の撮った写真を見て、他人の書いた言語を読むことで、それらの役割が混沌としてくる。知るほどに自由が効かなくなる。そもそも、役割なんかというものは常に明確である必要はない。そして途中段階のことを文章としてしまうことは怖い。それにしても、自分の性質上、数秒前の自分の認識の輪郭は取れている方が良いと思った。下記の文章は仮の個人的な定義であり、かつ常に移り変わるものである。早急に移り変わってしまうことを願っている。


◎言語としての写真

思考を記録するために視覚化という手段を用いる。(思考→写真→言語)あるいは、感覚的に視覚化されたものを、思考の資源にする。(感覚→写真→言語)重要度と拡張性は後者の方が大きい。

視覚化されたものを通して、本来持っていた思考や感覚は、(撮影者自身・観客いずれにとっても)別の形で理解されることになる。言語による記録が、ある面を掬えないことと同様に、視覚による記録もまた全ての面を掬うことはできない。視覚で全てが伝わることはない。視覚化されたものは、周囲の要素と比較されて意味を持ち、そこからさらに個人的思考あるいは一般的な言説へと展開する。

したがって、私の写真の理想は言語になることである。同様に、言語を用いるかどうかに関わらず、あらゆる制作物に関して、内部に言語への欲望を持っているもの、つまりは観客に内省と鍛錬を強いるものに関心がある。そうしたものを一切排除した単純な感動が同時にあることが前提だ。

2023年11月に出版した『Tab』は、デザイナー・久保海斗と詩人・國松絵梨の協力のもとで制作した。

ZINE『Tab』の概要
写真+文章(詩)の構成。「余地を残した意識の展開」を肯定する意をパソコンのキーボード「Tab」=「Tabulator」を模した冊子の構造に落とし込んでいる。「名前や明確な定義を持たせず、意図的に一定揺れ動いたままにする部分」をテーマとし、「スペースを残したまま改行する」「作業途中のままタブを開いておく」といった思考を示すことを目標にした。

ここでの写真は、「感覚→写真」の形式である。そこから「写真→言語」と展開するが、その一例として文章(詩)を入れ込んでいる。余地を残したままにすることを肯定することと同時に、可能な限り言語あるいは別の概念に展開する鍛錬を強いていると言えるかもしれない。漫然としたことをただ諦めるということではなく、未完了でも仕入れ、持ったままに進むということだ。

ZINE『Tab』について


○部品と組写真について

ところで、個人的に、写真は部品として撮るものとそれ以外に分かれる。

部品として撮るものは、さながらX線撮影のようなものだ。目を持った先は、あるものをただ見ることであり、そこに熱烈な感情は無く、報告に近い。それは例えば愛する人に向ける眼差しとしては、はなはだ冷たいものであり、実践することが難しい(可能である)。そもそもそうした目線を特定の人間に向けることが後ろめたい。なぜなら対象を一人の人間としてではなく、形や物質として捉えるからだ。

最初に写真を撮るという行為を通して涙を流すのは数年前の渋谷だった。

喫煙所で目の前に立っていた女性を撮影をした。彼女は家を持っていないようだった。

起こったことは、撮影を申し込み、快諾され、撮影をしただけだった。

軽い気持ちで声をかけたようで、思い返すと非常に強い欲望がそこにはあった。

私は相手の形状と色に惹かれた。それは、限りなく物質として捉えていた。一方で、俗衆が彼女へ向ける見下すような視線も同時に強く感じた。不思議な感情で、おそらくは感動、怒り、罪悪感だった。

主観と客観だけでは説明のつかない相反する認識により、自分が実はこの上なく冷酷であるのではないかと感じた。物質として見ている以上に客観はつまりは主観なのでは無いかと思ったのだった。悲しかった。

全くに同様の感情が再現することはおそらく無い。なぜなら、当時感じた客観が単なるメタ的なものであり、主観とは別物であることが明確にわかったからだ。

無意識に惹かれるのは醜いかもしれない何かで、欲望は綺麗なものだけを目指すわけではない。

自分の日記より

(アルベルト・レンガー=パッチュ(1897-1966)について)
『世界は美しい』は編集者がつけたタイトルで、もとのタイトルは「物」だった。−−−美しいという力点は、レンガー=パッチュ自身にはなかったと思うし、単純に世界は美しいと礼賛しているのではない。突き放して見ているというか、それが当時に生きる写真家としてのリアリティの新しい発見だったと思う。

後藤繁雄/港千尋/深川雅文=編(2019年3月26日)『現代写真アート原論』 フィルムアート社


組写真はこの部品を組み上げることだ。並置することで、ある文脈に落とし込むことだ。そのとき、思考あるいは感覚の視覚化の資源となる。そこに後ろめたさは発生しない。それは撮影時にのみ発生する。

−−−写真が生むリアルは必ずしも事前的なものではなく、事後性を取り込んだ作品もまた有効である−−−

後藤繁雄/港千尋/深川雅文=編(2019年3月26日)『現代写真アート原論』 フィルムアート社


また、それ以外に含まれる「思い出」記録的写真はわたしの場合、基本的には内省とは無関係なものであり、故に観客に鍛錬を必要とするものではない。上記との大きな違いは、観客が安直に参加することを許すという点である。ここで言う「参加」は、『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎=著,2015)の「決断の奴隷になること」(P310)の一節を連想させる。

また、一見「思い出」のように見えても、何らかの手段で観客が参加する想像力にブレーキをかけるようなものは部品に含まれる。この2つが全くの別物であることは明確だ。

◎言語について

また、言語は道具だ。本来対象(A)※は外部にある。言語を用いる際には、対象(A)に対する感情(怒り)を抽象化し、対象を自らの内部へすり替える(=対象(A’))。そうすることで、本来の感情とそれが発生するまでの流れを解す。

次に、仮に置かれた対象(A’)をよく観察する。対象を(A)から(A’)に置き換えることで、粗野な感情や、直接には関係のない成分を濾す。出来事から感情を排除して流れだけを観察する。(特に怒りやショッキングな感情は往々にして分析の妨碍をする。)そこで観察の記録を言語におこす(今もそれをしている。)ことで、文脈の再構築を図る。

つまり、何かに怒り、怒りを自分に向け、その何かの正体を探る行為を言語に頼っている。

※対象(A)が指すものは抽象化された人物や現象であり、特定の人物や現象を指すこともある。

自分の内省的言語は、現実に起こった事象と態が全く逆になっている。

自分の日記より

アガンベンは、−−−次のように述べている。
「内在原因という関係は、それを構成する能動的な要素が原因となって第二の要素を引き起こすのではなく、むしろ、それが第二の要素の中で自らを表現するということを含意している。」

國分功一郎(2017年3月27日)『中動態の世界 意志と責任の考古学』 医学書院

こうして、言語のおかげで私は怒ることがほとんど無くなったのであった。

これに関して少し前に悩んでいたのは、写真の部品と近しい感覚であった。
生態が掴めない人間と親密になった際、実験対象、観察対象として見てしてしまう場面があった。これはおそらく、自分の内部を侵され、必要に迫られて観察をすることで、思考したいという気持ちが強かったからだと思う。はてしなく自分本位な上に、危険なものの侵入を敢えて促しているという意味で愚鈍である。

そんな危なっかしい考えも、真っ当に歳を重ねると(真っ当かどうかはわからないが)変わっていくもので、現在の私がそうした感覚になることはほとんどない。

こうも移り変わることができているのは、紛れもなく写真と言語という道具のおかげだ。(それが好きであるということを「言語にした」おかげだ。)

このかなり個人的な文章を読んだ誰かが、これらへの思考をし、展開に貢献できることを願っている。

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