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叱る「独り言」

「親だから」

教育の仕事というのは、子ども達の幸せを願い授業を通して指導するものと思っている。人の幸せを願う、学ぶ事も同じだと子ども達には伝えている。人の不幸を願うなどとは無縁の、仕事に対する思いは全ての職に共通した基本だと思っている。

その人の持つ人間性とは、その人が亡くなった時に解ると両親から教わった。なる程、母が亡くなってそれを実感した。誰にでも気遣いを忘れない人だった。それは、弔問に訪れる人の表情、言葉、涙で理解出来た。ヤクルトの方など、声にならず泣き崩れてしまった。お隣の方も肩を落とされ、しゃがみ込んでしまった。誰にも愛された母であることを実感した。同時に我が母を、これほど誇りに思ったことはない。

私は、両親から成績について一言も言われた記憶がない。部活にのめり込み成績ががた落ちしたときもあった。それでも、何も言わない。これは返ってプレッシャーでもあった。しかし、人に迷惑を掛けたり、卑怯な対応をしたときは思いっきり怒られた。親が子どもを叱る、それは日常茶飯ではあるが、感情的な場合が多いように思う。叱るにも大義があるのだと思う。例えば、子どもの成績が落ちたから叱るのだろうか。本人が努力しても成績は落ちることがある。人を理由なく殴ったらどうか、迷惑を掛けたらどうか、成績が落ちて困るのは自分自身、しかし、暴力で相手を傷つけた場合は違う。親は子どもに何について叱るべきかを常に心しておかなければならない。時には親以外でも。それは、子どもの人生に関わるからだ。

時代は変わった、地域社会は、子どもを本気で叱る大人を排除してしまった。親も怒ることはあっても叱らなくなった。親は、子どもが人として道を踏み外したとき叱るべきで、その他は本人に考えさせるべき対応をすべきだ。人生の最終責任者は親ではない、子ども自身なのだから。このままでは、子ども達は中身のない空っぽな人間になってしまう。私の教師としてのスタンスがここにある。だから彼らを叱る。しかし、その時に気付かされる。「おまえ自身の甘さが、生徒をぶれさせる」と。叱ることの辛さを、実は生徒と同時に味わっている。

私は、生徒に片思いをしている。このように書くと「変態」扱いされそうだが、教師として生徒の事を思う気持ちは永遠の片思いではないかと思う。これは本来なら親も同じでなければならない。愛情が希薄である社会、その最初は家族から始まる。親が愛情をかけ育てる事で、子ども自身の愛情も芽生えてくるのではないだろうか。はじめのころ、子どもは親の思いを理解しない。というより出来ない。深いからだ。その深さを知ったとき、叱ってくれる親はもうこの世にはいない。人は、速くそのことに気付くべきだ。通夜と告別式が近づくにつれ、心のアルバムが際限なく捲られていく。

2014/5/19


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川先生監修!

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