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Ofrenda MAY/2020

2020年5月1日金曜日

納豆自体に美味しいとか美味しくないなんてあるのかってやっぱり腑に落ちない。納豆に何を入れるのかっていう好みはわかります。ここでも納豆に入れるもの?。ってなると思うんだけど。納豆にネギ。って普通?。自分は納豆食べるためにわざわざネギなんて買ったことないからわかんなくなってきた。

子供の頃食べてた納豆に輪切りのネギがふんだんに入れて食べてた。ただ、家族の好みはそれぞれあって、父親は白菜の漬物を刻んだ納豆以外受け付けなかった。うちは農家ではなかったけど。家の前には畑があって、野菜はほとんど買うことはなかったんだ。冬になる前に白菜の漬物作って保存。

新鮮な野菜が取れなくなる冬の間は大根とか人参とかの根菜とネギ、そして白菜。それも白菜の漬物は毎日毎日毎食毎食食卓に上る。それを刻んだものを納豆に入れてる父親はよっぽど白菜の漬物が好きだったんだろうなと思う。今じゃその白菜の漬物の味も忘れてしまったけど、今の自分なら納豆に入れるかも。


2020年5月2日土曜日

家に畑があったことで、毎日毎日毎食毎食食卓に上るものってけっこうたくさんあったなとふと思い出した。冬の白菜の漬物と並行してとろろ(山芋をすりおろしたもの)も冬の朝食のルーティンだった。予想できるところだがとろろ納豆ご飯というのも各自の判断で食べていた。なんとも贅沢な感じ!?
新鮮な野菜がなかなか食べられない冬の季節がようやく終わると春は菜の花。菜種油を採るために畑のある家々では栽培されていた。種になるまでの菜の花は適度に切り取られおかずになったり。花は目を楽しませてくれる。この菜の花畑でかくれんぼしたのは美しい思い出。まるで映画の世界。

その後実が熟し種を採取しておくと油業者の人が来て種を絞ってくれて菜種油の完成。それから一年、天ぷらやフライや野菜炒めにその油は使われることになる。冬の白菜から抜け出した後の菜の花のおひたし攻撃。ポパイが食べているほうれん草に憧れていたな。今じゃ立場は逆転しているけど。

菜の花のおひたしなんてそう気軽に食べられる代物じゃないものね。菜の花だけじゃなく、春に芽吹く野菜や山菜の味には子供ながらに興奮してた。ふきのとう、たらの芽、独活、わらび、ぜんまい。土地が人間の都合のいいように平坦化されてしまって野放図に生育する植物の出る幕も無くなった。

そしてハリボテみたいな花や植物で覆われてしまった現在から思いもつかない夢のような植物の世界だったのだなと。長く生きてみて。世界の儚さとかせつなさみたいなこと。目前にある植物や食生活なんていう日常の風景からも感じさせられるのだよ。去っていった過去を嘆いても仕方はないけれどね。

2020年5月3日日曜日

昔を礼賛したり。今時を嘆いたりのお言葉は置いておいて。ルーティンの食事の話。春から夏へと進みます。今度は夏野菜。トマト、なす、きゅうり、とうもろこし。こんなのが自宅の目の前の畑でなっていたらさぞかしテンションも上がるでしょうねえ。でも、作っていたのは自分じゃないからね。

割と関心の外にあったんです。それに休みの日とかは畑作業の手伝いとかさせれるからなおさら畑にも作物にも気持ちが遠ざかってしまう。なので三食の食卓に上る塩振られたトマト。トマトが毎日食べられるなんて夢みたいな世界なんだけど、ほぼ義務のように口に運んでいた。

あと、ジャガイモ。ジャガイモは味噌汁には必ず入っていた。これも味わって食べてたなんて記憶はない。ご飯を胃に流し込む液体としか思っていなかった。それときゅうり。福島県はきゅうりの有名な生産地なんです。関東地方の人はスーパーで福島産って表示されたきゅうりはけっこう目にしませんか?。

特に自分の故郷は福島産でも岩瀬きゅうりという有名な生産地なんです。きうり天王祭というお祭りまであります。これは町おこし的なチャラいイベント系のお祭りじゃなくてちゃんとした伝統がある本当のお祭り。それだけきゅうりは生活に深く関わってたことは今もしっかり覚えています。


2020年5月4日月曜日

大人になって自分で生活するようになって、きゅうりって買うものなんだと驚きました。それも意外と高い。高いというほどではないのだけど、自分にとっては捨てるほどあるというのがきゅうりに対する認識だったので。故郷ではきゅうりは農家の人が作るだけでなく。大体の家には庭があるわけ。田舎だし。

ちょっとした地面があればきゅうりを作ってる人が沢山いる。うちももちろんそうだった。それできゅうりがなる季節になると次々と実って来る。毎日毎日消費しないといけない。でも一家庭ではそれについていけなくなる。だからおすそ分け合戦になって。どんどん在庫が増えるわけ。

きゅうりのぬか漬けなんて時間のかかる保存方法なんて間に合わない。塩もみとか生のきゅうりに味噌つけて食べるとか。脅迫的にも思えるような方法でどんどん食べさせられる。ちなみにきゅうりを真ん中から縦に切って間に味噌を塗った味噌サンド的なものはおやつの定番でもあった。


2020年5月8日金曜日

きゅうりはあまりにも口にし過ぎていて。納豆同様、好きか嫌いかなんて感覚もなかった。でも、あっさりさっぱりというイメージのきゅうりって意外に癖がある食べ物ではないのだろうか?。第一、煮る焼くって選択肢はない食材。酢豚にきゅうりみたいなものはあるだろうけど。自分はNG。

大根とかでもサラダみたいに生食すると本来の癖見たいのが際立って来る。きゅうりは生食が基本なのでその癖に慣れ切っているからあんまり意識しない。そもそも、癖がなくて見た目もまっすぐなように改良?されて画一化されてるだろうから。なおさらきゅうり本来の風味に感覚が鈍化してる。

もし庭できゅうりを栽培してたら、スーパーで売られてるみたいなきゅうりばかりじゃないって実感すると思う。曲がったりお尻がやたら太っていたり。油断するとあっという間にきゅうりは肥大化してヘチマみたいになってしまうし。それももったいない精神で食べようと思うと。。。ほんとまずいんです。

先日、こんなきゅうりの話を書いていた。そしたら、なんの因果かわからないのだけれどきゅうりの王国からお呼びがかかった。きゅうりの王国の住人の一人の父親が突然死んでしまった。父親の死は不要不急に当てはまるのかな?。今まで自分は世界に必要な人間だとは思っていなかった。

でも、今回だけは自分が必要とされていると感じた。父親の葬儀一式の喪主なんだ。自粛も破らなければいけない。不要不急ではなくて必要至急と判断して、県をまたがる移動をすることにした。現実の空間移動だけではなく、たくさんの時間離れていた場所に戻るという時間の旅もしてきた感じがする。

2020年5月9日土曜日

数日の葬儀一式がとりあえず終わって。精神的にも肉体的にもボロボロなんです今。もともと父親とかそれを背景にした土地に生きることを拒絶して今の自分があるので、父親を亡くした悲しみとかいう感情は湧かないだろうなと思ったけど、やっぱりその通りで。ただ、ここやり過ごしても元には戻れない。

普通なんてもうどこにもないって局面がやってきた。まるでコロナの騒ぎで交わされてる会話の話題のような事態が自分の個人的な生活の中にリアルに立ち上がってきた。抽象的な世界で思案することも大事なんだけど、遠隔で作業できることには限界があるんだよな。

ちょっとした時間で完了する案件なら自分の生活基盤を変化させなくてもいいかもしれないけれど、膨大な問題と直面してる今。孤立した自分の世界からできることはほぼない。長いこと閉じこもっていたドアの向こうにお迎えがやってきたってことなんだ。

ここから出て行くにはまだまだ準備不足なんで速攻で実行というのは無理なんだけど。ドアはとりあえず開けなくちゃいけないみたいだ。


2020年5月10日日曜日

中断してたきゅうりの話でも続けようかな。この一週間、父の葬儀で福島に帰っていたんだけど、弔問の手土産にきゅうりを持ってきてくださる方がいて、さすがにきゅうり王国だなと。それと今は5月の前半。なのに、もうきゅうり?。きゅうりというと夏野菜のイメージなんだけど。

でもいろんなことあってというかありすぎて今年は季節の移り変わりなんて文人気取りの戯言言ってる場合じゃなかったりするのも一因ですかねえ。思えば、5月も10日過ぎともなれば立派に初夏ってこと。5月の清々しい陽気にみずみずしいきゅうりをほおばる。それなりの季節はやってきている。

いただいたきゅうりは早速食卓に上る。ぶつ切りにされたきゅうりにみそ。日頃食べ慣れているスーパーのきゅうりとはちょっと違うかな。ありきたりの感想文しか書けないのだけど。やっぱ、味が濃いし、水分も多く、パリパリ。どんどんいける。子供達も貪る。さすが福島の子供だなと妙なとこで感心。


2020年5月11日月曜日

長々ときゅうりの話をしているけど。きゅうりがどれだけ好きか?みたいなこと言いたいわけでもないし。きゅうりがない生活なんて考えられないという話でもない。きゅうりの話してると、やっぱり幼少期の話題になるし、故郷の家族のことを思い出すし。自分のアイデンティティーの確認?。みたいな?。

そもそもきゅうりという野菜。どこまでも添え物的で、食卓での主役級のレシピなんてあるのかな?。ちょっと考えにくい。きゅうり王国を故郷に持つ自分だけど、一年のうちできゅうりを食すのって何日あるのか?。意識してないうちに食べてることもあるかな?。というぐらい印象にない食材でもある。

野菜というくくりから言うと、ホウレンソウやらナスやら小松菜やらは日常のマストアイテムっぽいけど、きゅうりは食への関心が向かなくなる真夏以外に登場機会が自分的にはないかなあ。あっ、でも、きっとそこがポイントなのかも。自分ではどうにもできない環境の下で最悪ヤバイみたいになった時。

そこで身体が欲するもの。究極の選択で居残るもの。それがきゅうり?。ってことなのかもしれないな。栄養方面の知識とか皆無なんだけど、身体が欲する食べ物ってきっと間違っていないと思う。過酷な真夏にはきゅうり王国の住人に関係なく、滋養になる野菜となるのだろう‥ということで締めようかな。


2020年5月12日火曜日

先週は今まで経験したことのないような。想像すらできないことありきで。でもそういうこと乗り切れたわけでもなく。乗り切れるものでもないのだなってことになってる。自分の出自に何十年ぶりに向き合うことになったわけ。父親が亡くなったことで、自分の生家をたたむって問題にこれから直面する。
深いところでつながっていたんだろうと思う故郷という逃げ場みたいな所。その場所との関係性と決別するという作業に向かう。ま、精神的になんだけど。今いるのがそこ。まだ準備段階なんだけど。最終的な目標みたいなのはそこに落とし込むことなんだな。

そういう未来が設定されていることだけでも日々が嫌な空気に満たされているし。この鬱々とした雰囲気に身体も精神もいつか破綻するんじゃないのかと。なんとなく予想できる。そうなったらそうなるだけなのだけど、平常を保ていても、バランスが崩壊してもどちらにしてもダメかな?。


2020年5月13日水曜日

現前にあるリアルから別ののリアルへ逃げ込む事がひどく限定されている現在。世界から拒絶されている感がすごいことになっている。身体という肉の塊から抜けられない。そういう息苦しさは苦しさや痛みまで伴って、もはや病気に近くなってきている。

本来なら肉の塊の身体という観念はバーチャルみたいな嘘くさい未来的なものに対抗する極にあってもてはやされてるはず。「やっぱり音楽はライブだよね」「食事はみんなと食べるから美味しい」「実際に人と会わなくちゃ仕事にならない」とかね。こういうの今じゃ全部否定されてる。

自分はお祭り嫌いだし、食事の時ぐらい一人で食べたいし、お金を稼ぐために人と話すのは最悪、なので今の風潮は居心地いいし、永遠に続いて欲しい。とほざいているものの。今ここにあるリアルからの空間的に移動できる逃げ場所が封鎖されていることはキツイ。


2020年5月14日木曜日

世界に存在する他者とはなるべく触れ合いたくないから大歓迎。しかし、他者の存在が完全に払拭されているわけじゃないから、制限はされているんだけど、やっぱりこういう他者に触れ合わなくちゃいけないのはストレスになるし、それが蓄積されることに変わりない。やっぱり逃げ場を希求している。
簡単な言葉で言ったらストレス発散!みたいなチャラい言葉で片付けることできる物見遊山的な行い。そういうのが制限されている。不要不急のことするな!っていうのは正しい言葉。正しい言葉に従ってみんなで力を合わせて、一つになっていれば家族の幸せだし、みんなの幸せだしっておきまりのパターン。

こういうのいつもいつも違和感しかない流れなんですけど。社会のガス抜きみたいな魔女狩りの標的になっちゃうのはごめんだねと思うのは自分も同じわけで。そのリスクより、大きな流れに身を任せて息潜めてた方が楽チン!の地点に立ち止まってる。サイレントマジョリティーの典型の自己嫌悪の甘い汁。

声を荒げて自分を通す者に従う物言わぬ大衆にもささやかに思うことはある。今この時だけできる陳腐な質問しちゃおうかな?。この騒ぎ?落ち着いたらどこ行きたい?。「家族やみんなのために一つになって」に従っている人たち。ほんとはね「不要不急の行い」って本当はどれだけ必要かって感じてるはず。

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