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肉
生きてるだけで丸儲けとか。
言う人いるけど。
生きてることってのに意義を見出す前に。
生きてるって現象みたいな。
世界に存在する自己。
そういう映像がリアリティを持って。
受け入れられないんだよ。
成り立っていると言われてる世界。
薄っぺらで実在してんの?。
って疑惑と困惑抜けられんので。
そこから投影される自分も曖昧なんだ。
ないものねだりで成り立ってる自分と世界の境界。
ゆらゆらどっちもね行ったり来たりが安易に行われてるらしくて。
そもそも。
もぞもぞ。
自分も世界も確定されたビジョンはないんだと思う。
自分も世界も一つに確立されてないってことだよ。
だからさ。
世界も自分も一個や二個なくなったって平気だろうって結論導き出される。
でもなあ。
多分自分という主体は身体って生々しい肉の塊に閉じ込められてんだよ。
それはなんとなく確信してる案件だよ。
肉はあっちにもこっちにもパラレルに存在できないんだ。
腐ったら再生不能。
肉を断ち切って自分は存在できない。
はず。
だよね?。
だからその境界線上で肉の悲鳴を聞きながら。
ゆらゆら陽炎みたいな世界の画像とノイズの中で蠢いている死なない主体。
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