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Ofrenda APR/2020

2020年4月1日水曜日

もうちょっと水曜日のカンパネラ続ける。シャクシャインがアイヌを思い出させてくれたとしたら、もう一つ「ユタ」という曲がある。こちらは沖縄の言葉のラップ。沖縄の言葉はアイヌに比べたらまだまだ生き生きとしてるけれど。テレビと日本語で結ばれた日本という国家に飲み込まれそうだ。

そういうところに向かっていき新しい価値観を世界に提示していく音楽の世界の人々に惹かれるし、豊かな文化はお金と暴力で勝ち残った者たちにだけ存在するわけではなくて、地面にしっかり足を踏ん張って立っている人たちの中にあるのだってことだよね。お金がなくても声は出せるし手拍子打てる。
音楽や文化って奪い取ることはできるのかもしれないけれど、作り上げることには気が遠くなるほどの時間と人の手がかかるんじゃないのかな?。沖縄もアイヌも彼方の海に流れ出されそうな感じもするけれど。今は続くんだし、今のアイヌ、今の沖縄は今が続く限りずっと続いていく。


2020年4月2日木曜日

沖縄の文化に出会ったのはアイヌと同じでやっぱり柳宗悦の日本民藝館。紅型の展覧会だった。文様も色彩も豊かでいっぺんで好きになった。日本的?な渋いとか逆に艶やかでまったりとした染物じゃなくて、なんとも軽やかで明るい。美しいというよりかわいいって表現が合ってる染物。

紅型という言葉もなんとなく異国っぽくて素敵じゃないですか?。展覧会を見終えてたくさんの絵葉書を買った思い出がある。自分の母親はお裁縫が仕事で子供の服がほぼ手作りだった。大人になっても好きな生地を選んで買ってくるとそれでシャツを作ってくれた。今も残ってるものもあるんだ。

いつも生地や糸や針などの裁縫道具を見て育ってきたので、服飾には興味あったし、洋服を買うこと着ることにほぼエネルギーを費やしていた時代もあった。その頃思い描いていた未来は服飾関係で生きていくことだった。大学卒業して原宿の洋服屋で売り子しながら、デザインの専門学校行ってた。

結局、服飾の世界に紛れ込むことはできなかった。その程度の自分だっただけ。今も満たされぬ想い抱えたまま。それに代わる何かも見つけることもできない。そんなことはどうでもいいか。アイヌの衣装や紅型のデザインを目にして満たされぬ自分のダメさが共振するんです。ただただ憧れと気持ちよさ。


2020年4月3日金曜日

日本民藝館と紅型というつながりから、芹沢銈介という人を知った。人間国宝の染色家。彼は紅型の手法も使っていて、工芸の分野を超えて作品はとってもキュートでカワイイ。工芸品って重厚で渋くて通をうならせるみたいなイメージなんだけど、そういう固定観念を根本からひっくり返してくれる。

人間国宝の作品をカワイイとか言っちゃっていいのかなと思うけど、彼の作品を見たらきっとこの言葉が出てしまうと思うんだけど。静岡市の登呂遺跡の一角に、芹沢銈介の作品と収集物が展示されている静岡市立芹沢銈介美術館がある。毎年一度ここに行くことがルーティンのようになっている。

芹沢銈介の作品は心から楽しめるのだけれど、そのクオリティーの高さに最初は大きな衝撃を受けた。何度も何度も静岡や駒場で芹沢銈介の作品には触れているのだけど、毎度毎度打ちのめされている。デスクにもテーブルにも必ず彼の書籍は置いてあって、芹沢銈介のデザインを見ない日はない。

自分が肉の塊として生きていられるのはそう長くないことは自覚しているので、いまさら願望しないのだけど。芹沢銈介のような人になりたい。自分という意識がシャットダウンしても万が一再起動できたらさ、芹沢銈介としてリセットされた自分が立ち上がると思います。もう一人なりたい人はいるけど。

そのぐらい好きでリスペクトの巨人、芹沢銈介。みんなもぜひ彼の作品に触れてほしい。一瞬で心奪われると思う。人間国宝の作品なんて思うと敬遠しちゃいたくなるけど、ポップでカラフル。ウィットに富んでるし。美の巨匠が魂込めた。。。みたいなんじゃなく素敵なお店のグッズとかパッケージ的?。

めちゃくちゃ語弊があるような褒め方なのかもしれないけど。もしこれが買えるのならどれにしようかな?ってなるような。そんな魅力。実際展示を見ているおばさまたちの会話って高級百貨店で買い物してる人ののりだし。自分も益子あたりの古道具屋さんで物色しているように見ているし。


2020年4月4日土曜日

芹沢銈介の話から引き続いていくのはやっぱり濱田庄司かな?。この人に強烈に惹かれたわけではないのだけれど、陶芸というのものにはけっこう興味津々は20代からだったので、それも柳宗悦の影響だったのだけれど。車を持てるようになってようやく栃木県の益子を訪れることができてさ。

益子の濱田庄司の参考館。陶芸とかって超憧れる人っているよなあ。手作りって観念の極。お金の心配とかなくなったらやってみたいことナンバーワンの趣味??趣味って言葉吐き気だけどさ。そんなイメージの陶芸。ま、そんなことはどうでもよくて。貧乏な食卓も麗しい食器が並べれば夢を見れる。

そんな意識で器というもの自分なりのお金で手に入れるってのが楽しい。けどやっぱそういうことを日常にすることなんてできないカスのような貧乏には限界あるんで見てるだけになってる。そんなカスでも楽しめる場所が益子だったわけです。益子は自分にとっては夢の国の一つ。


2020年4月5日日曜日

福島で生まれたのに隣の栃木県にある益子は知らなかった。峠の釜飯の器が益子焼というのは薄々知っていたのだけれど、焼き物の世界は遠い世界で益子もどっかずっと遠いところにあるんだろうなぐらいの認識。益子焼という認識はあったけど、益子という土地を意識したことはなかった。

栃木と釜飯ということで遠い記憶が呼び起こされたのだけど、まだ東北新幹線というものがなかった頃、東京などに出かける時、急行や特急の電車は栃木県の北部の黒磯という駅で停車した。割と長めの停車時間で、ホームに駅弁の売り子さんたちがいて、乗客が駅弁を求めて車内から出て行った。

そのお弁当が釜飯だった。うちにあった釜飯の器は峠の釜飯の器ではなくて黒磯の釜飯の器があった。父親が出張かなんかの時のお土産で釜飯で買ってきてくれたものだと思う。その頃は横川も黒磯も区別もつかず。釜飯の器は益子焼と思い込んでいたのか、父親に吹き込まれたのか?。


2020年4月6日月曜日

家にあった釜飯の器には梅干しが入っていた。ここで益子焼のことを書き始めようとした時、梅干の壺は益子焼だったよなあ。なんてことを思っていた。釜飯の器に梅干しが入っていたという超個人的な記憶で嘘情報流すとこでした。でもはるか昔の記憶を懐かしむことできてちょっと嬉しかったけどね。

梅干しの壺。気になるので検索してみると、愛知県の常滑焼が主流みたい。とんだ勘違い。さて、本題の益子焼の故郷の益子のことに戻ることにします。益子を訪れたのは何かの偶然とか人に勧められたとかではなく。明らかに強い意志があって訪れました。訪れる前から聖地ごとく焦がれていました。

初めて訪れた時はスマートホンのナビとか手軽に使える時代じゃなかったので、パーキングで止まるたびに地図を出しては道を探し探し苦労してたどり着いた。標識に益子の文字が見え。陶芸店の看板が見え始めると胸の高鳴りも最高潮に。やっと来れたんだと感動で胸が熱くなりました。

2020年4月7日火曜日

益子焼の店舗が並ぶメインストリートの城内坂は街道沿い的なショッピングセンターが並ぶハリボテみたいな現代の街並みの風景とは隔絶したような佇まいがあって、自分はすぐにバリ島のウブドのことを思った。街並みを外れるとすぐに田んぼの風景が広がるところもウブド的だった。

まず、益子に向かった最大の動機は濱田庄司という人と彼の作業場が保存されている濱田庄司記念益子参考館。登り窯もあって、彼の作品やコレクションが展示されている美術館。最初の益子訪問ではここにいまいちどこから入るのかわからなくて入館しないで帰ってきてしまった。

それと。starnetというおしゃれスポット。陶芸の里的な素朴なイメージを先端の文化を発する価値観を益子という場所に付与したお店。それも見つけられなくて。というか未だにスターネットに行ってはいないのですが。最初の益子の旅はただただ益子を訪れたという満足感だけで終わったのかもしれない。

バリ島にハマったのも最初から満点の旅ができなかったリベンジがバリ島への思いを熱くしたのと似ているのかもしれない。バリ島のとは比較できないほど小さいけど。自分が住んでいる横浜から地続きにあるバリ。元々の憧れにますますの思い込みを付与された自分の中の益子熱で何度も訪れることになる。


2020年4月8日水曜日

益子という町。「陶芸の里」的な焼き物のお店が並ぶ観光地の顔がたくさんの人を集めている。そういった面もあるのだけれど、柳宗悦の日本民藝館みたいな空間が町全体に展開されているような文化的な匂いを好む人たちのハートもぎゅっとつかむ。それと日本人?の原風景のような里山が広がっている。
超絶な風景や建築物なんかで人を引き寄せる場所ではないけれど、人気の観光地みたいじゃないでところが逆に唯一無比の場所になっている。と思う。自分んだけなのかもしれないけどね。益子と言えば陶芸の町というのが一番先に来るのだけど、自分は陶芸のお店に寄ることはほとんどなくて。

手頃な価格でアンティーク物を購入できるお店が何軒かあって、まずは参考館に行くのだけど、そのあとアンティークショップをハシゴする。必ず寄るお店はモダンロフトさんと仁平古家具店さん。今、うちで使っている食器や生活雑貨の多くはここで購入させていただいたもの。

益子という町自体も自分の現実とは別にある現実を見せてくれるのだけれど、この二つのお店(他に何限もあるけれど)の佇まいと益子の風景が醸し出す別世界感はそうそう出会えるものではない。販売されている魅力的な品々とともにこういうお店を到着点として出かけてる面も大きい。


2020年4月9日木曜日

益子の旅でもう一つおすすめな場所。数年前にオープンした「道の駅ましこ」益子の街並みをちょっと離れた田園風景が広がるロケーションにある最先端の道の駅。いつ行ってもたくさんの人で賑わっている。益子の町に入る前に寄る場合もあるしの旅の締めくくりとして行く場合もある。

栃木県の美味しいものや益子の手作りの物がうまいこと表現されている売り場は購買意欲や食欲が刺激されまくりで、旅に道の駅を訪れることも楽しみにしている人や買い物は外せない人にはぜひぜひのオススメ。栃木県。同じ関東地方にあるところなんだけど、いまいちイメージ湧きません。

栃木県には日光という国民的な観光地があるんですよ。ただそれ以外に何があるのかって言われるとなかなか思い浮かばない。でもこの道の駅の売り場を彷徨うと栃木県の味自慢やら素晴らしい文化に触れることができます。何度訪れても新しい刺激もあるし、また来れたなっていう安堵感もある。

自分にとってはかけがえのない地の一つなんだよ!!って思いつつ道の駅を後に関東平野の広大な田園風景に車を滑らせて行く爽快感といったら。濱田庄司の陶芸の話からすっかりサイトシーイングの話になってしまったけど。旅の思い出って振り返るとどんどん記憶が封印解かれ感情溢れ出てきちゃう。
バリ島と違って、行こうと思えば思った朝にでも出かけられる益子。そうこう言ってるうちでも出かけたくなるのだけど。世界中が動くことを拒否してる。自粛なんて言葉に屈するつもりなんてないけれど。ちょっとね今は我慢。我慢しなくて良くなったら、行きます必ず。生きていたらね。だから生きる。

2020年4月10日金曜日

リアルの世界で空間的に別の世界に逃げ込む方法。旅。現在は最も困難な状況になってます。ね。リアルな日常自体も相当息苦しくなっているし。フツウの人々もきついでしょう?。今までだったらね。息抜きとか癒しとか安易にガス抜きもできたのでしょうが。。。

息抜きに空間を移動して物見遊山的に深呼吸リラックス。権力にそういうことしないで!!と胸ぐら掴まれて言われてるんだからね。フツウの人は恵まれてることに閉じ込められんじゃなくて閉じ込もれる場所持ってるはず。超幸せなんで。世界から与えられてるリアルに頼るんじゃなくてさ。

自分の力で逃げ込む場所を作り上げられんでどうする。世界に決められたルールに乗ってるだけでこれまで生き延びれてたわけで、文句をいうことが自分の唯一のアイデンティティーで逃げ場所をコツコツ作り上げていなかった。諸々。今時は人を陥れ差別化することで正気を保とうとしている。

今までカス扱いされていた。そういう主体。いつの世でも表立って讃えられることはあるはずもないのだけれど、正しいフツウの人々の醜い阿鼻叫喚を距離置いて眺めることができる時代になってるね。どうだい鬱の気分は?。まだまだ初期症状だよ。これからどんどん酷くなる。

頑張れ!とか絆!みたいなクソ標語じゃ誰も救えない。それでも自分の都合よく世界はなくならないし。自分という主体を失っても世界の終わりはやってこない。社会の奴隷として労働して他者を見張りあっていた主体も時間を与えられて考え始める。フツウのみなさんも哲学者になれるチャンスがきた?。


2020年4月11日土曜日

退屈な日常をぶっ飛ばし、日頃の憂さを晴らすために、人間はたくさんの仕掛けをこしらえてきた。祭り。芸能。音楽。スポーツ。こう言った図式は疑われることもない事実だったんだ。でも、退屈な日常って定義が時として崩れる時がある。それは個人的な時もあるし地域的、国家的なこともある。

国家的に退屈な日常が枯渇するなんてことは一人の人生で一度あるかないかぐらいのことだよね。まして世界史の教科書に載るような世界中から退屈な日常が姿を消すなんてね。さらに強烈なのはネットやテレビで世界の隅々例外なく一人も逃さず退屈が引き剥がされた。

その一方で退屈を晴らすためのいろんな仕掛けは忘れ去られというか今回に限っては抹殺されかねない状況に追い込まれている。退屈な日常に世界が覆い尽くされたとしても、そこで自分がうち迫る危機に直面し効果的な画策を打ち出す映画の主役になれるわけでもなく、背景の一部でいるのは今まで通り。

今度は非退屈な日常にがんじがらめ。こんなだったら退屈な日常の方が百倍も良かったなんて言っても、非退屈な日常はデーンと居座ってしまって動こうとする気配すら感じさせない。だったらさ非退屈な日常をぶっ飛ばす方法ってあるのか?。


2020年4月12日日曜日

もう少しちっちゃなスケールだったら、人と人の絆とかさ、癒しとかさ、優しい方向性でなんとなくやり過ごすことできたのかもしれないけど、例外なく世界中がやられてるようなレベルになると、ベクトルが逆に向くんだなって感じた。至る所でちょっとした差別を見つけ出して貶める。

自分が優位に立てる理屈こねくり回して楽になろうとするだなあ。一つ一つのラブを積み重ねて乗り越えてく非退屈な日常目指すんじゃなくて、一つ一つのヘイトを積み重ねて自滅していく方向に行くのかね?。今まで経験したことのない方法で新世界大戦が繰り広げられ始めてるんだよな。

国家によって兵役に引っ張り出されるわけでもないし。送り込まれる戦場もない。今いる場所が戦場であって、今いない場所も戦場。戦場でない場所はないし。敵は見えないけれど。どこにでもいる。こういう状況って空間はすべてフラットでパラレルに存在する別の空間なんてどこにもないってことだよね。

つまりどこにも逃げ込む場所はないということ。敵という主体もウィルスなのか恐怖なのかいかれた人間なのかまるでわかんないし。むしろそれら全部含まれてると思うし。だから自分という主体の観念上で逃げ場探しても、自分自体が既に敵に侵されているのかも定かでないのだから、ここにも逃げ場ない。

だったらどうしたらいい?。と問うても。答えなんかどこにもないって誰もがうすうす感じている。自分という主体が時間を通過してどこかの地点で原因と結果という風景を俯瞰できるようになって初めて定義できることなんだろうな。そこまで自分の肉とか意識が永らえていたらの話なんだけどさ。


2020年4月13日月曜日

今まで経験したことないこと。自分は世界と隔絶していると諦観してたのにさ。今じゃ、ウィルスという共通言語で世界中のみんなと共感できるんだと驚いている。音楽は国境を越えるとか、愛は世界を救うとか、超胡散臭いけど、ウィルスは国境を楽々と超え、恐怖に言語なんていらない。

自分は初めて世界と強く繋がっているしそれを無視できないことわかったよ。もともと世界との隔絶感に苦しんでいたから、ちょっとね、ホッとしてる。世界に歓迎されてこの世の春を享受していたポジティブシンキングヒューマンは今もめげずに啓蒙活動に勤しんでるんだろう。元気でな。だな。死ぬなよ。


現在から未来へのストーリーはやっぱり描けない。だったら過去に似たような事項がなかったのかなって。。。それが歴史だよね。「感染る」というキーワード。今、歴史を紐解いて安心を得ようとする。それほどのことでもないしそんな時間ないし。ともかく「感染る」で思い浮かんだ本とか読み返してみたい。


2020年4月14日火曜日

「感染る」という事象がどんな感じでやってきて拡大しいずれは収束していくのだろうが、どういう風に収束する未来を迎えるのかを知りたい。そのために今のリアルを疑似体験できるような本。確かずいぶん昔に読んだ記憶あるし部屋のどこかにあるはずと思われるんだけど。カミュの「ペスト」。

多分部屋探してもなかなか見つからないだろうし。Kindleにダウンロードしよっかな?。いやいや、やっぱり本の方が使い勝手が格段にいいし。この本は文庫本で出てるはずだから、本を手に入れよう!!。と思ったのだけど。自分がいつも行く書店。なーんと全部閉鎖されているではないか。

思えば書店というものはどんどん淘汰されていって。もともと数が少なくなっている。膨大な書籍を蓄えている大型書店しか生き残っていない。大型書店は駅近くの商業施設の中のテナントであることが多い。それで、今は商業施設はほぼ閉鎖されている。ということだね。これどう思う?。


2020年4月15日水曜日

音楽や演劇もネットの中に追いやられ。書店も今度こそAMAZONにトドメ刺されてしまうのか?。今は瀬戸際に追い詰められている音楽や演劇とかを代表するLIVE。でもさこういうのは追い込まれても絶対になくならない。LIVE命!!みたいな人間はいなくならない。いつかは這い上がってくる。

自分はそういうとこに行くことないし、LIVEな音楽も演劇にも興味ないのだけど。でも書籍というか文字の羅列は簡単にデータになるし。。。というか、未だにアナログとして生き残ってるという事実。逆に不思議なんだけど。それだけ、本という端末はとにかくよくできている。

Kindleがあれば本屋に本買いにいかなくていじゃん。なのだけど。何度も言うけれど本という装置の使い勝手は素晴らしいのだよ。人間の感覚って超速攻で目的を繰り広げたいときはガチガチのイエスorノーの二択みたいなデジタルは向いていないと思う。

本読んでる途中に、あ、そういやさっき読んだところに戻って気になることチェックしたい。とか。この先この本どれだけ続くの?。みたいな感覚。アナログって言うと、もはや過去形の主体にも思われるけれど。人様は今のところ肉の塊のアナログの極なわけなんでね。


2020年4月16日木曜日

マッハの高速で数式を疲れ知らずに計算し続けられることができない人間としての自分。重力に縛り付けられてノタノタ這いつくばっている自分には本が一番しっくりりするし、一番の相棒なんだよなって思う。具体的に何がそうなのかをすぐには答えられないのだけど。。。

スマートフォンでやり取りするメールの文章を読むのはOKなのに、スマートフォンで読む本はなんか馴染まないのはなんでなのだろう?。メールは短文?。人間の反射神経でも反応できる。。。から?。それとLINEみたいなメールのやり取りって昔のチャットみたいに、会話的な要素強いと思うんだ。

会話って相手がいることだし、会話って止まっちゃいけない。だから自分の意見を長々と秩序立てて論じるみたいなそういう文字入力はしない。会話的言葉でサラサラいける端末が向いてる。パソコンでやり取りするメールよりも電話で話した方が簡単に理解が進む。

LINEみたいなツールは簡易化された会話ツールじゃないのかな。この点では人間のスピードに絶妙にマッチングしているのだと思う。なのに読書という場面でのスマートフォンやタブレットの使用感はどうにもギクシャクしてなじまない。唐突に頭に浮かんだ。デジタル本って巻物に似てる???


2020年4月17日金曜日

くるくる回して読み進める巻物。目で追っている文字が動画のように進んで行くような感じ?。実際に手にして読んだことはないけれど、時系列でだいぶ前に戻りたいとかあそこらへんのところちょっと気になる。みたいな場面で、ランダムに適当にめくってページ開いたりすることができない。

kindleって端末でもそういうことできる仕掛けがあるんだけど自分の気まぐれな感覚について来れないんですよ。人様の傲慢さなのかもしれないけれどね。本をパラパラめくるって感覚はとっても大事なこと。こういう感覚って「適当」という言葉で要約できるのではないのかな?。

「適当」という言葉。検索すると、ほどよく当てはまるってのと、いい加減なことと、相反するような二つの意味合いで使われるとのこと。ほどよく当てはまるっていうのも超いい加減な気もするし。ほどよくってそもそも何?。だよね。

料理番組とかで目分量という言葉が使われる時がある。計測する機器を使わずに人間の身体で判断すること。だからAIには目分量と指示出しても行動は起こせないだろうし、「適当」の意味は通じないじゃない?。いやAIも経験を積んでいけば目分量を計測できるかもしれないけどね。もしやもうできる?。


2020年4月18日土曜日

いつか「適当」な指示をAIに出しても適当な行動を難なくこなせるようになるのかもね。スマートスピーカーに「適当な時間に起こして」って言ったら、適当な時間に起こしてくれるような未来が来るかも。そうなったら適当にめくれる本というデバイスもその時にはもう存在していないかもしれない。

自分の適当と他人の適当はきっと違っているから色々行き違いもある。適当を覚えたAIと喧嘩もするかも。喧嘩というと人類とAIの対立の構図が早速囁かれそう。でも、喧嘩って相手を対等に見てるってこともあるわけで、 AIを人類の脅威みたいに捉える心配事もその時は意識されていないかもしれない。
ドラえもんみたいなAI。そんなニュアンンス。ドラえもんとのび太は喧嘩するけど徹底的な亀裂は起こさない。AIが人間に奉仕するおとぎ話みたいな未来図だけど。今も AIは人間に奉仕するために存在しているし。楽観的な未来に一票を投じたくなる。書店や書籍の話からだいぶ脱線しちゃったな。


2020年4月19日日曜日

ドラえもんの話。せっかくだから、もうちょっとしようかな。未来の話なのに風景は昭和。いや、ドラえもんは未来からやってきたけど、過去にいるってことか。リアルの自分たちが生きている現代こそがドラえもんの世界から見たら未来。ドラえもんが登場した時代はどんどん過去に置き去りにされ。

ドラえもんがやってきた未来にどんどん近づいて行く。過去に定住しているのび太たちは未来に向かって行くリアルの人間の不安や戸惑いを知らない。
未来に向かって行くことって死に向かって行くこと。誰にでも100パーやって来る確実な未来。死なない人はいない。でも、のび太たちは永遠。

ドラえもん、クレヨンしんちゃん、サザエさん、ちびまる子ちゃん、などなど。国民的アニメ。ストーリーが着々と進行するのではなく、毎回トピックが単発で繰り広げられる展開。その反復の長寿番組。それぞれの時代。世界観を共有するそれぞれの世代。

自分たちが抱く未来への不安や恐れを、時が経過しない空間で日常を繰り広げている登場人物に自分を重ねることでほんの少しのリフレッシュをしてるのかもしれないね。だから、一見毒にも薬にもならない退屈なコンテンツにも思えるけど。時代を嫌でも共有してる世代には消えては困る番組なんだと思う。


2020年4月20日月曜日

国民的アニメの声優さんが変わったりすると大きなニュースになったりする。それは時間が止まっている世界なはずなのに時間が動いてしまうから。未来(死)に向かう悪い予感?が頭を過ぎる。みたいな動揺走るのかな?。でもすぐになれるし、忘れちゃうんだけどね。

常に自分に寄り添って、影のように自分を映し出しているわけでもないし、意識もしていないのだけれど。でも、映像に出くわせば反応しない人はいないし。キャラクターの名前や家族構成やストーリー展開を知らない人はいない。それが国民的アニメ。

大人になってアニメのテレビ番組を楽しみに待つことはなくなっても、幼い頃に刷り込まれたサザエさんやドラえもんの人物や風景。滅多に会うこともない親戚みたいな存在感さえ放っている。時代が止まったままでも、今も日常を反復しつつ放映されている。これって奇跡じゃない!って気がしてくる。

2020年4月21日火曜日

自分も国民的アニメと共に生きてきたことは確かで。まあ、国民って何?なんだけど、同じテレビを見てそれに共通感覚持ってる集団の一粒みたいなの。同じ言葉で会話できて、似たような価値感覚があって、そのぐらいのニュアンスでの国民。という枠組みでの国民的アニメを体感してきた。

何が起こるでもない日常の出来事の反復のコンテンツがなんでこんなにも長い間放映されているのかな?。自分のリアルに共振する何かがあるだろうと思う。自分がこういったアニメ見てた時の幼少期の家族構成はどのアニメの家族に似てるかな?。

サザエさん家やちびまる子ちゃん家みたいに三世代大家族じゃなかったな。ドラえもんののび太君家みたいに一人っ子じゃないし。クレヨンしんちゃんの家族四人と犬1匹というのが一番近いかな?。犬はいなかったけど。でもしんちゃんの時代背景には自分が見ていた風景とはまるで違う。しっくりこない。


2020年4月22日水曜日

クレヨンしんちゃんの世界。都心の郊外の画一的な風景の中にある家庭のプラスチック感みたいなのが自分の遠い記憶の家庭の風景とはシンクロしない。家族構成は違ってもやっぱりのび太の家族や服装、街の風景が自分には一番しっくり感じられるのかなと思う。

自分の家には二階はなかったけど、あの階段の雰囲気とか押入れとか。机の引き出しとか。書き出すとなんか止まらない。サザエさんの家も玄関とか黒電話とか、カツオとワカメちゃんの部屋と布団とか共感できるアイテムがたくさん登場して来る。

でも、勝手口に現れる御用聞きとか、お隣の小説家とか、電車で通うお父さんとか、けっこう時代背景は古いんだけど、都会っぽさが際立ってて自分とはちょっと違和感あるんだな。のび太君も都会の子ではあるんだけど、やっぱり自分が子供の頃過ごした世界はドラえもんの世界に一番近いかな?。


2020年4月23日木曜日

サザエさんもちびまる子ちゃんもクレヨンしんちゃんも作品としてはどれも好きなんだけど、一番自分を映す世界観を感じられるのはドラえもん。多分、のび太君と自分の年齢もほぼ同じなんじゃないかと思う。のび太君が人と同じ時間で成長してればだけど。

国民的アニメって、人それぞれが、それぞれのアニメに出演しているエキストラの中のどこかに自分を見つけることができるのが大きな魅力なんだろうと思う。あんな風になりたいな!!みたいなヒーローものやお姫様チックなドラマとは逆のベクトルを持ったコンテンツってことかな?。

サザエさんやドラえもん。見ることがなくなってから随分経つのだけれど、今見たらどんな気持ちになるんだろう?。友達の待ち合わせをLINEでやったり、AMAZONで買ったものが宅急便で届いたり、Suicaで電車に乗ったり。そんな当たり前の日常がない日常はいつまで展開していくのかな?。


2020年4月24日金曜日

こんなに長い間その矛盾みたいのを抱えつつ違和感なしで見続けられる国民的アニメ。本当に不思議なんだ。インターネットで生活の何が劇的に変わった?とか。自民党政権と民主党政権の時、何が違っていた?とか。日々の目先のことに振り回されている自分。

人に説明受けると、なるほどなと合点することもあるけど。本当のところ実際に自分の人生変わるほど風景が劇的に変わったなんて実感ないんだよね。地面に這いつくばってこき使われてお腹空いて食べたら眠くなって。そんな繰り返しにあの時代は今とはここが違ってたなんてスラスラ説明なんてできない。

サザエさんが黒電話で話していても、のび太とスネ夫とジャイアンが空き地の土管で遊んんでいても、何も違和感なく普段の風景として受け入れちゃってるのって、ジャリジャリしたリアルの居心地の悪さからの逃避としてノスタルジーに浸っていたいってのだけじゃないと思う。

昭和の風景と令和の風景のギャップなんてどうでもいいところにある何か普遍的な人と人の関わり合いとか人と人が繰り広げる風景。時代を超えて観ている人たちは、そういうところに腑に落ちているから。

携帯電話が使われていない社会でも、ちゃぶ台みたいなテーブルで大家族が食事してる家族でも、違和感とかにひっかることもなく日常のふとした風景として受け入れているんだと思う。そういうのが国民的アニメが連綿と続いていく反復のストーリーの魅力の一つなのかな?。


2020年4月25日土曜日

国民的アニメに国民が共感するモチーフでとっても大事そうなものがある。それって食事シーン。うん。確かにたくさん出て来る。家族が食卓を囲むシーン。サザエさんもちびまる子ちゃんも。ただ。何を食べているかはちっとも覚えてないし、それ以前に登場人物が食べてる絵も浮かんでこない。

波平がお酒飲んでるシーンぐらいしか記憶がない。それに比して、ワンピースとかジブリ映画の食事シーンは強烈だ。すぐに登場人物たちが食べ物に貪りついてる姿が脳裏に現れて来る。そして自分の食欲にまで感染して、猛烈にお腹が空いて来る。

サザエさんもドラえもんもそれぞれの食事シーンとかで検索すればきっと何を食べているかなんてすぐにわかるんだろうけど、そこはもやっとしたままにしといて。食事の内容よりも座卓を囲んで家族が食事をしているという場面が大事なんだってということにしておこう。


2020年4月26日日曜日

国民的アニメの食事の風景に共感する国民。自分もその一人であることは確かなんだ。アニメの主人公たちの年齢の頃、自分はどんな食卓を前にしてたのかな?。思い出してみよっかな。うん。確かにね。畳の座敷が家にもあった。八畳の部屋。そこに結構でかい座卓あってそこで食事してた。

自分の生家。田舎なんです。福島県。父親は地方公務員。町役場の職員。母親はお裁縫しながら家にいた。それと子供二人の核家族。そんな家族の風景が繰り広げられてた日常。まさに国民的アニメとシンクロしてるよね。身近にクリエーターいたらすぐに四コマ漫画でも作ってくれそうだな。表層はね。
そうなんだ。登場人物たちの内面に深く立ち入らないで薄っぺらな日常だけ映し出してるなら、そりゃ誰でも共感するし、これは自分のことじゃないかってなる。これ自分のこと!!当たってる!!みたいな占い的なとこが国民的アニメには存分にあるのではないのか?。


2020年4月27日月曜日

日本語話して、家族がいて、ご飯食べて、学校や仕事や会社に行って、そういう表層の日常を共有してるのが国民的アニメの「国民」という言葉に当てはまるとも言える。その表層の前提がどんどん崩れて来ると、国民って概念に甚だ疑問を呈す!に自分はなってきてるのだなと腑に落ちる。

一緒にご飯食べる家族なんていないし。仕事や会社なんて概念はルーティンみたいに存続することと思ったことないし。周りに存在を感じる人々との距離。違和感。どうにも心地よくないので。こういう人々と「国民」という言葉で括られてるの本当に嫌だなって。そういう人もたくさんいるよね。

日本頑張れ!!。ワンチーム!!。絆!!。吐き気するんだよね。自分は他人とは違うんだよって自意識過剰。そっちこそ吐き気なんだよ!!ってなるんだけど。ま、どうでもいいんだけど。自分が見えてる世界に存在してる自分。まさに「国民」以外の何者でもない「国家」のエキストラ。その他大勢。
そんなその他大勢の昔の記憶。やっぱり話し始めたら饒舌になること請け合い!!。国民的アニメの話。こんなに引きずるとも思わなかった。一旦サザエさんとかドラえもんとかからさよならしよっと。で、ワンピースとかアンパンマンにいくということではないのではないです。

国民的アニメの話から派生。自分の記憶の中の食卓。もうちょっと思い起こしてみる。食卓に並んでいるもの。例えば朝食。ご飯と味噌汁と納豆。ご飯はいろいろ語ることもないこともないよね。ま、普通にある。日本国民の認識として。で、味噌汁。これも普通にあるある。日本国民にとっての常識?。

2020年4月28日火曜日

ご飯と味噌汁。じゃ納豆は?。日本という設定上、納豆ノーサンキュー!!の人たちの勢力あるよね。ところが自分の故郷>福島県南部では納豆の存在は圧倒的。現在の自分は納豆はいろいろなご飯の友の一つなんで、思い出した頃に食べるみたいな感じになっているんだけど。

まだ福島で生活していた時分。納豆というものは365日の朝食の食卓に上るものだった。赤ちゃんの離乳食は納豆!!。そんな風土だったよ。ご飯が好きか?嫌いか?とか味噌汁が好き?か嫌いか?って問いがないように。納豆がき好き?か嫌い?かの問いもないのです。

昨晩のカレーが残ってたんで今朝はカレーという場面。こういうのは全国でもありますよね?。でも自分の故郷では朝食には納豆というのが基礎にあります。それは絶対的な条件なので、どうなるのかというと納豆カレーとなります。これはこんな文化?に塗れていない人にとってはオエっ!かもね。


2020年4月29日水曜日

納豆カレー。これ絶対NGでしょ?。そう思うでしょ?。でもね、けっこういけるんだよね!と言える納豆県民!!???。うむうむ。ここでも引っかかる言葉。「県民」。カテゴライズで差別化エンターテイメントのテレビショー。超鳥肌嫌!!苦手なんですけど。それもきっと手なんでしょ TV?。
そんな枠組みに故郷が括られるの絶対無理。ということ。でもいくいくよ。
福島県。納豆。他の人の家庭の食卓のことは知らないけど。遥か遠くの記憶。毎朝ヤクルトのように納豆が各家々に配達されてたような気がする。これは幼少時の記憶なんで相当昔だと思うけれど。朝食に納豆は欠かせないのは確か。

おばあちゃんの家は農家だった。茹でた大豆を藁に包んでニラの土の中に埋めて自家製の納豆を作っていた。土に埋めるのは保温して発酵させるためだと思う。自家製の納豆。これはきっと福島県に限らないだろうし、納豆といえば茨城県だしね。この納豆の記憶も幼い頃のものなので、味の記憶はない。残念。


2020年4月30日木曜日

自家製の納豆。今思えばなんて贅沢なものだったのか!。今食べたらどんな味がするのかな?。今食べてる市販の納豆の味なんて気にもしたことがないから。癖のある食材の納豆の風味。この違いを感じ取るほど納豆の味にこだわりがあるわけじゃない。そういう人の舌も唸らせる本物の納豆なのかな?。
納豆が嫌いな人。受け付けない人にとっては何喋ってんだこいつっ!!なんだろうなあ。でもまあ普通に納豆を食べる自分なんだけど。毎日納豆がないと始まらない人たち。自分の父親や甥や妹たち。今も福島にいるんだけど。この人たちは市販の納豆商品に対しても好みやこだわりあるんです。

自分は納豆って好きか嫌いしかないでしょ?。ですが。市販の納豆ってタレとか辛子が付いてて。発砲スチロールの正方形の器の中でまぜまぜと味付けが完了するように設計されてる。そのタレとか辛子の袋を開ける作業が滅茶苦茶気分が下がるというか面倒くさい。それで納豆嫌いになるぐらい。

それを蓋に組み込まれたタレ。プチッと二つにおるだけでタレを投入できる画期的な納豆に出会って久々に納豆をけっこう日々の食事に取り入れるようになった気がする。福島に帰省して家族にその話ししたら、一瞬でその納豆は便利かもしれないけれど美味しくないと速攻で否定されました。

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