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リア充

椅子に座っってモニター見つめて。ん。何も出てこない。膠着してる様なんだ今。止まって動かない。動けない?。動かない?。どれとも取れるし。どの状態も含んでる。自分という主体が困難?。みたいなところあるわけではない。普通という便利な言葉で作られた輪郭線の中に収まってて。問題ないじゃんって。ことに落ち着いてんだ。そういう膠着。吾輩は猫であるの吾輩が餅に翻弄されてるような困窮に瀕してるって様態とは明らかに違うってこと。何もしなくても。何も起こらないし。何も起こらなくても。自分は何も困らない。だから。何もしない。椅子に座ってモニター見つめて。世界で何かが起こって。何かが起こったから。何かに困ってる人が出てきて。こっち側から見てる自分。超バランスというか均衡が取れてんだ。自分は困らない。世界は困ってる。プラマイ0じゃん。ほらねなんか自分は神の目で世界に対してるみたいな感じになってくる。ただ。この均衡状態はほんの些細なことで簡単にバランス崩しちゃう。ちっちゃな揺らぎは大きな波を引き起こす。でもうろたえるんじゃないよ。こうなって初めてやっとこさ原初に戻れる。意識が動き始める。大きく崩れた自分という主体を元に戻そうとする大きな力が発動されるんだ。たかをくくってしまいがちだけど。この時に作動する力と残された轍の暴力的なほどの痕跡は侮れない。自分って主体ってなんなのかの疑問は晴れることはないけど。崩れ落ちた絶望から治癒していく過程の自分っていうのは信じてあげてもいいんじゃないのかな?。

自分ができると思っていること以外が自分ができないことなので、自分ができないことは自分が思っている以上に多い。さらに自分ができると思っていることも本当にできるのかというと甚だ危うい。なので自分ができないことは圧倒的で、それに感づいていないのは幸福なことなんだ。自分ができることから始めようなんて言ってるのも幸福なこと同様だね。日々できないことに揺さぶられて、どやされて死にたくなるよ。できることから始めたってできないことの壁にすぐ突き当たる。できることの階段を上がるたびに階段の高さが高くなる。でもやっぱりできることから始めることしかできない。幸福な人々ってのはできることから始めようと言ってそこに止まってるから。でも、それが実は正解なんだ。沈滞。先送り。幸せに暮らす方法だよ。それができない人。幸せな世界で息をする方法も考え込んじゃって難儀な行為を無為に繰り返す羽目になる。

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