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新型コロナウイルスと意思決定—— 『公〈おおやけ〉』 #2

猪瀬直樹の作家生活40年の集大成とも言える作品、『公〈おおやけ〉 日本国・意思決定のマネジメントを問う 』発売を記念して一部を無料公開いたします。
他の国にはある公への意識が、この国には見られないのはなぜなのか。明治から令和まで、日本近代の風景を縦横無尽に描く力作です。私たちNewsPicksパブリッシングは新たな読書体験を通じて、「経済と文化の両利き」を増やし、世界の変革を担っていきます。

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第Ⅰ部
新型コロナウイルスと意思決定

〝孤島〟ダイヤモンド・プリンセス号

不吉な使者

間断なく押し寄せる〝コロナの波〟のなかで、もはや忘れられかけている光景から始めよう。

──横浜の大黒ふ頭に停泊していた英国船籍の豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号は巨大な動くホテルである。白く流麗な姿は海の青さとのコントラストが鮮やかで、塵芥にまみれる陸地を蔑むかのように悠然と浮かんでいる。

この新時代の夢の城は、排水量11万6000トン、全長290メートル。高さ54メートル(水面上)は17階建てのビルに相当する大きさである。
 
かつて大日本帝国海軍が秘密裏に建造した戦艦大和・戦艦武蔵は排水量6万9000トン、全長263メートル、ごつごつとした鉄の塊が鈍色に輝く世界一の巨艦であった。

戦艦大和・戦艦武蔵の乗組員は各3300、2500人だが、ダイヤモンド・プリンセス号は乗組員1100人、乗客2700人と大きさだけでなく人の数も大きく上回る。

こうした巨大なクルーズ客船がつぎつぎ建造され太平洋に現れたのはこの20年ほどの期間であった。格差社会が深まり富裕層が増加したこと、長寿命化により需要が掘り起こされたことが要因となった。また欧米だけでなく東アジアでも人口14億人の中国を先頭とする〝中進国(新興工業経済地域)〟の経済成長によって空前絶後の観光市場が誕生したことも大きい。ダイヤモンド・プリンセス号は、奇しくも戦艦武蔵を建造した三菱重工長崎造船所で誕生している。

いま語ろうとしているのはこの巨大な白船が幸福の使者から、不吉な禍の運搬船と化したことについてだ。

新型コロナウイルスは日本人の意思決定にまたひとつ問題を投じた。それは歴史的にも繰り返し、繰り返し問われてきた解決されざる課題でもあった。


中国・独裁者の意思決定

中国・湖北省武漢市内で原因不明の最初の肺炎患者が見つかったのは2019年12月8日で、12月30日に武漢市内の病院に勤務する医師・李文亮によりSNS上で重症急性呼吸器症候群(SARS)に似た肺炎が確認されたと発信された。翌日WHO(世界保健機関)にも知らされた。

しかし李文亮は2020年1月3日に武漢市公安局から、インターネットに虚偽の内容を掲載した、と訓戒処分を受ける。その後、李医師自身も罹患して1月12日に入院、2月7日に死去している。

公安当局だけでなくメディアも、李医師をデマの伝播者と見做していたが、1月12日にWHOが、新型コロナウイルス感染者41名、うち初めての死者が出たと公表する。WHOは発症者のほとんどが武漢市内の海鮮卸市場の従業員や来訪者であることを確認していた。

中国では共産党の地方幹部は中央の指導部に対して都合の悪いことは報告したがらない。人事権は中央にあるから、顔色をうかがう忖度の関係になっている。しかし、新型コロナウイルスの存在が海外へ知れ渡ると中央の幹部は、なぜ報告しなかったのかと責任を地方幹部に押しつけ難詰する側に豹変した。

国際的なメンツを失うことを恐れた習近平独裁政権の感染症に対する猛スピードで苛烈な反撃がここから始まるのである。

習近平国家主席は1月20日、「新型肺炎を全力で予防、制圧する」と指示を出し、武漢市への列車と航空便を止め、外部の交通を遮断した。1月24日から始まる春節(旧正月)の大型連休で延べ30億人規模の移動が見込まれていたからだ。

武漢を閉鎖した23日に1000人の患者が入院できる病院の突貫工事を10日で完成させる、と号令を発した。テレビ画面には、無数の蟻がもぞもぞとたかるように、あたかもミニチュアのブルドーザーが動いているかのごとくその様子が映し出された。実際に10日後の2月3日に病院は開院する。2日遅れでスタートした1.6倍規模の病院の建設も突貫工事で滞りなく完成させている。「火神山医院」と「雷神山医院」と名付けられた。

ある意味では独裁政権の意思決定はわかりやすい。


最初のクラスター

武漢市の封鎖という強硬手段をとった中国に対して、感染のクラスターとなった、横浜・大黒ふ頭に停泊していたダイヤモンド・プリンセス号をめぐる日本国の意思決定はわかりにくかった。

1月20日に横浜を出発するクルーズに参加し、25日に香港で下船した乗客が新型コロナウイルスに感染していると判明した。寄港予定を1日短縮して2月3日に横浜沖に戻った。その夜に検疫官が乗船した。検疫官はマスクはしていたが、防護服でなく紺色の作業服を着ていた。

2月5日の早朝まで船内での行動は制限されておらず、乗客はマスクもせずにバーでくつろぎ、ショーなどのイベントも通常通り開催されていた。海上保安庁はマスク7200枚を急遽ヘリコプターで輸送する。10人に陽性反応があると判明したので海上保安庁が患者を巡視艇に乗せ換えてから神奈川県内の病院へ移送した。

ウイルス検査の対象となる乗員・乗客は3711人にのぼるが一度にはできない。症状がある者とその濃厚接触者から順次検査が始まった。クラスターが発生しやすいホットスポットであることは自明にもかかわらず、厚労省は2月5日に「有症者を中心に新型コロナウイルス検査を実施しており、その結果については、追って公表いたします」としか発表していない。

クルーズ船は2月6日早朝に大黒ふ頭に接岸した。この時点で神奈川DMAT(医師・看護師・調整員で構成される1チームおよそ5人の災害派遣医療チーム)が船内に入って活動をスタートさせている。この日、10人が病院へ搬送された。

翌7日のプレスリリースにはこう記された。

「2月3日より横浜港で検疫を実施しているクルーズ船『ダイヤモンド・プリンセス号』について、新たに新型コロナウイルスに関する検査結果が判明した171名のうち41名について新型コロナウイルスの陽性が確認されたため、本日、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県、静岡県の協力を得て感染症病棟を有する医療機関に搬送することとした。陽性が確認されたのは、合わせて(5日、6日、7日)273名中61名となった」


注記に、WHOではこの数字は日本国内の発生件数と別個の件数として取り扱われている、とある。

日本国内の発生件数は5日時点で19人と少ない。武漢からの観光客を乗せたバスツアーの運転手など感染源が明らかにできる者に限られていた。ダイヤモンド・プリンセス号の乗客の感染者数は耳目を引くに充分であった。だからテレビのワイドショーは連日、クルーズ船の動向を追うようになる。

(「感染症対策本部」の設置——『公〈おおやけ〉』 #3 へ続く)

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【目次】
はじめに
第Ⅰ部 新型コロナウイルスと意思決定
第Ⅱ部 作家とマーケット
第Ⅲ部 作家的感性と官僚的無感性