「ミシュランガイド」は、あのテクノロジーを浸透させるために生まれた
2つの罠が待ち受ける「テクノロジー」の波
新しいテクノロジーが人々の生活を変え、新しい「あたりまえ」を生み出してきたことは説明が不要でしょう。そして今、私たちはAIを筆頭とするテクノロジーが生み出す第5次産業革命とも言われる爆発的な変化の中に生きています。
・お財布から現金をだして買い物する生活が、スマホひとつで決済するキャッシュレスという新しい「あたりまえ」に生まれ変わる
・会社に毎日通勤する日常が、リモート技術によって在宅勤務や二拠点生活という新しい「あたりまえ」に生まれ変わる
・人によるオペレーションから、AIによるオペレーションが台頭し、電話よりも検索よりも、まずはAIに尋ねるという新しい「あたりまえ」に生まれ変わる
多くの企業の経営者は5G技術、ブロックチェーン技術、AI技術を活用したサービスの開発、提供を進めています。
多くの事業者は、新しいサービスは新しいライフスタイルを生み出すという期待や野望を抱いているはずです。テクノロジーによる新しい生活、新しい「あたりまえ」を提案したいスタートアップも次々と生まれています。
その普及を促進するために、PRの合意形成の技術が必要とされているのです。
タイヤ会社がなぜ「ミシュランガイド」をつくったのか
歴史をみれば、革新的な技術が常にすごいスピードで世界のあたりまえを変えていくのかといえば、そうでもないのが実情です。
今では誰もがあたりまえだと思う、車や鉄道による移動ですら、過去を振り返ると、すんなりと世の中に普及していったわけではないのです。
人々は頭では新しいテクノロジーの利便性を理解していますが、慣れ親しんだ以前の習慣、つまり過去の「あたりまえ」、車や鉄道でいえば、馬車による移動という習慣を、なかなか捨てることができませんでした。
もちろん、みなさんは「ミシュランガイド」を知っていますよね。世界中のおいしい料理を提供してくれるレストランを紹介するガイドブックです。
この「ミシュランガイド」の始まりは1900年のパリ万博開催のタイミングに、ある企業がドライバーに必要な情報を無料で配布したもの。そう、その名の通り発行したのはタイヤ会社であるミシュランです。
なぜ、タイヤ会社がレストランガイドを発行したのでしょうか?
1900年当時、自動車は未来の乗り物として注目されていましたが、自動車産業はまだ発展途上で、車で移動するというライフスタイルは定着していませんでした。
タイヤ会社であるミシュランは、自動車産業が成長することで自社のビジネスを拡大できるわけで、自動車での移動が大冒険だった時代に、人々に安心・安全・快適に移動してもらうことが、自動車の普及につながると考えました。
そのため、当時の「ミシュランガイド」には、ドライバーのために、市街地図と、当時まだ数が少なかった自動車修理工場やガソリンスタンド、病院、休息をとるためのホテルなども紹介されていました。
このガイドブックは1920年に有料化され、1926年からは、おいしい料理を提供するホテルに星をつけ始めます。その星は「わざわざ訪れる価値のある」「遠回りしてでも訪れる価値のある」レストランがあるホテルを意味していたのです。現在でも使われている星の定義の誕生です。
このようにミシュランガイドは、ドライブして外食を楽しむという新たな「あたりまえ」の普及を促進したのです。
現代からしてみれば、家族のレジャーやデートでドライブを楽しむのはあたりまえなわけですが、昔はそうではありませんでした。車の運転をすることは、一部の人たちの趣味であり、一般の人からしてみれば危険な乗り物が出現したという感覚もありました。
イギリスでは車がロンドンの市街地を走るときは、赤旗を持った人が車を先導する「赤旗法」がつくられたくらいです。人が車を先導するなんて、車の利便性からしたら本末転倒ですよね。
頭で考えれば、車の馬車に対する優位性は明確です。馬の面倒を見なければならないし、御者を雇わなければいけない馬車に対し、自動車は休みなく走り続け遠隔地を目指せる。でも、「自動車」という新しいテクノロジーのメリットを理解していても、ドライブという習慣はそう簡単に根づかなかったのです。
自動車の歴史からわかることは「人は、新しいあたりまえを開発者が思うようには受け入れない」という事実です。そこで、ミシュランはクリエイティブな方法でドライブという新しい「あたりまえ」の普及を図ったのです。
「自動車」ぐらい革新的でわかりやすいテクノロジーでも、社会との合意を形成するために、あの手この手のPR戦略が必要だったわけです。
ここだったら、車の必要性を感じてくれますか?という握れるポイントが、郊外にあるレストランでのグルメ体験だったわけです。
キャッシュレス、ブロックチェーン、AIなど、革新的なテクノロジーでも、その普及のためには「この部分なら握れますよね」というポイントを探すPRの技術は重要になってくるのではないでしょうか。
社会実装を加速する「パブリック・アフェアーズ」というソリューション
新しいテクノロジーの市場導入は時に既存の社会の仕組みやルールとフリクションを起こします。
「世紀の大発明」と言われたセグウェイが日本で普及できなかった理由は道路交通法により公道を走れなかったからと言われています。セグウェイは2020年7月にひっそりとその製造を終了しました。
今、日本で議論を呼んでいるのがマッチングのテクノロジーを活用したライドシェアサービスです。日本では運送業法により「白タク」扱いになってしまうために、営業ができないという問題が当初発生しました。
その後、事業者の働きかけにより、2024年4月に道路運送法が改正され、タクシー会社が運行管理し、車両不足が深刻な地域や時間帯に絞るなどの条件つきでライドシェアが解禁されました。
このように、新しいテクノロジーを活用したサービスの普及には、渉外活動を通じた既存のルール(法律や条例)の変更を促す活動が必要になることが多々あるのです。
そのためには、議員や、政府の監督官庁、自治体、あるいはそれらに影響力を及ぼす業界団体や、商工会議所などに対して新しいテクノロジーがつくる未来の世界の価値ーつまり新しい「あたりまえ」が世の中にもたらす便益をしっかり説明し、彼らに制度を変える意義を理解し、行動を起こしてもらわなければなりません。
新しいテクノロジーが、法制度など既存のシステムと齟齬を生じたとき、そのギャップを解消するPRの技術は「パブリック・アフェアーズ」と言われ、1970年代にアメリカで誕生し、サービスとして体系化されてきました。
具体的には、新たなテクノロジーの導入の意味を、政府・政党・自治体・所轄官庁・業界団体・商工会議所、ときに学会や関連NPOなど制度制定に関わるさまざまなステークホルダーに説き、法律や条例の制定や改定などを含めて新たな制度を定着させるサービスです。
議員への陳情活動を示すロビー活動も、パブリック・アフェアーズの一環ですね。
例えば、日本で2022年から企業の経費精算がデジタル化したのも、実はパブリック・アフェアーズを推進したPRパーソンたちの成果です。
出張・経費管理クラウドサービスを提供するコンカーは、パブリック・アフェアーズで知られる井之上パブリックリレーションズと、日本のビジネスパーソンが膨大な時間を領収書の糊づけなど、経費精算の作業に取られている実態を調査し、「働き方改革」を推進するためにも経費精算のデジタル化が必要であると関係省庁に働きかけ、法律改正のきっかけを作りました。
それまでの日本の法律では、企業に過去年分の経費の領収書の保管を義務づけていました。
ですから、日本のサラリーマンたちは毎月紙の領収書を社内書類に糊づけする作業に追われていたのです。
デジタルの経費精算を「働き方改革」という多くのステークホルダーが目指すべきテーマの中に位置づけたことで、議論が加速しました。まさに、立場の違う人たちが握れるポイントを見つけ出すPRパーソンの合意形成の技術が、領収書はデジタルで処理・保管するという新しい「あたりまえ」を目指した法律の改正の背景にあったわけです。
新しいテクノロジーが続々と実装される現在。パブリック・アフェアーズの市場の伸びは大きいと予測され、日本でも業界団体が設立されたり、PR会社がパブリック・アフェアーズのスキルをもった人材の採用を強化するなどの動きが見られます。
テクノロジーの社会実装を進める事業者はこれからパブリック・アフェアーズの支援を受けやすい環境になっていくことでしょう。
見過ごしがちな「普及の罠」と「制度の罠」
まとめると新しいテクノロジーの普及には、開発者が気づきにくい2つの「罠」があります。
1.普及の罠:みんなが新しいあたりまえに飛びつくイノベーター的な性質を持っているわけではない。便利だと理解されても、実際に多くの生活者に受け入れられるにはタイムラグがある。
2.制度の罠:新しいテクノロジーの普及に際し、過去のルールや制度とのフリクションが発生する。国や行政などに対する働きかけによって、法律や条例などの制度を変える必要がある。
すぐれたテクノロジーだからといってすぐには受け入れられない現実があるのですが、開発者は新技術の開発に猛進するために、時にこの壁を忘れがちです。
そこには、生活者が納得する合意形成が必要で、開発者が想像もしなかった理由でテクノロジーが世の中に受け入れられていくケースも多いのです。
立法や行政との交渉はさらに複雑です。ライドシェアにおけるタクシー業界など、テクノロジーの推進者と敵対する人々の利益を代表するステークホルダーとも合意形成が必要になるからです。
ビジネスパーソンが新しい技術の普及をはかろうとするとき、異なる価値観を持つ、交渉相手と握れるポイントを見つけるPRパーソンの視点は不可欠なのではないでしょうか。