ゲームのコントローラーが壊れた。
決してゲーマーと呼べるレベルではないが、テレビゲームが毎日の日課になっていた。
自宅で仕事をすることが多いのもあり、ちょっとした空き時間にゲーム。気分転換にゲーム。主に10分程度で1試合を終えられる「FIFA」というサッカーゲームばかりしていたが、累計すると1日のプレイ時間はかなりのものになると思う。
そんなテレビゲームだが、ある日急にコントローラーの調子が悪くなった。
選手を動かそうとしても特定の方向にのみ走ってくれないのだ。しかもこちらが攻撃している時にはちゃんと走ってくれるのに、守備側に回った途端に、まったく選手が動かなくなる。
自陣ゴールへと相手が攻めていくのを、追いかけることもコースを塞ぐこともせず、ただ棒立ちで眺めている。まるで小学生低学年のサッカーの試合のようではないか。
そんなこんなでとてもゲームを楽しめる状況ではないので、新しいコントローラーを買った。注文した翌日には届き「やっぱりAmazonはすごい」と改めて思った。
早速動かしてみると今度はすいすいと選手たちがこちらの意図したように動いてくれる。
相手のドリブルをカットし、必死にくらいついてセンタリングを上げさせないようにし、スライディングをしてシュートをブロックする。僕の求めていたフットボールの世界を取り戻すことができた。
しかし、その2日後。
またコントローラーが動かなくなった。あまりにも早い生命であった。これは流石にクレームを言って交換してもらおうと思ったが、そんな気力も起きてこない。
これは神様が僕に「もうゲームをやめなさい」とメッセージを発しているのかもしれない。
そう思うことにした。
断っておくが、FIFAというゲームの持つ効力はすごい。そのゲームをやっている時はひたすらに無心になれるし、普段使わない脳を使うからだろうか、色々な記憶がひとりでに思い出されたり、新しいアイデアが芽生えてくることもある。
僕のライフスタイルにおける、一種の瞑想のような時間であった。
ただ弊害を自覚していたのも確かだった。
まず辞めようと思ってもなかなか辞められない。あと1試合だけと思ってたら、気づけば4試合くらいやってしまうこともある。
となると自ずと時間がなくなる。コンサルのように相手都合もある仕事の場合はちゃんと時間を確保できるが、自分のための勉強や純粋なインプットの時間はまるでなくなってしまう。
また恐らく眼精疲労や肩こりなどにも繋がってるんじゃないかと思う。ひと時のエンターテイメントと引き換えに体が蝕まれていく。先ほど「瞑想」と評したことが馬鹿らしくなってくる。
そんなわけで、2回目のコントローラーの故障が判明したその日、僕はゲーム本体を片付け、ゲームをする代わりに映画を観ることにした。
Amazonプライムで適当にセレクトした映画をソファに腰掛けてダラッと眺めているうちに、いかにこの時間が有意義で人生にプラスになるものかに気づくことができた。
1本2時間という拘束時間は「リフレッシュ」には長く感じられたが、結局のところ細切れになっていたゲームの時間と同じくらいだ。
それに、1つのコンテンツを見終わった後の感情がとてつもなく堪らない。
もっとこんな風に生きてみようと気力が湧いてきたり、感情が大きく動いたことで心がデトックスされたように思えたり、仕事をしてる時間の集中力も普段と段違いになった。
またどう考えても「仕事のアイデア」はゲームをしている時よりも浮かんでくる気がしたし、想像力やストーリーテリングなど本業に生きる部分も増えるのは言うまでもない。
そして、翌日の朝の目覚めも素晴らしかったので、これからは2、3日に1本は何かしらの作品に触れようと心に決めた。
ゲームのコントローラーが壊れた。
こんなアクシデントがなければ、こんな生活の変化には出会うことができなかったわけで、人生の質を上げていくには予定調和から抜け出して、ある種の強制力が必要なのだと改めて思い知った。
もっと映画や小説などのコンテンツに触れた方がいいことはわかっていたが「ゲーム」という習慣を変えることができず、半永久的に「いつかやることリスト」の中に埋もれ続けるところだったのだ。
それを変えることができたのは、コントローラーが壊れたというアクシデントによって、強制的に習慣を変えざるを得なかったからだということは間違いない。
人生を変えるには習慣を変えるのが一番だが、習慣を変えるにはアクシデントの力が効果的だと、身をもって思い知らされた1日だった。
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