==優しい話==

さみしくなるとトムウェイツが聴きたくなる
初期のブルージーな曲もいいし
中期の哲学者みたいな曲もいい
さみしいぼくにはとても優しい
それは包み込んでくれるような優しさじゃなくて
名前も知らないけれど、一緒に飲んでいたのに気がつくともう帰っていてお代まで払ってくれてたみたいな優しさ。
ぼくは、しわがれ声のマスターがやってる小洒落てもなく気が利いてもないという、大した取り柄もない、だけど時々作る酒がうまいバーで飲んでいた。
無口そうな、中年というより初老の男がカウンターの隣に座って言った。
「ギムレットか」
ぼくは珍しくその日はギムレットなんて酒を頼んでいたのだけど、それはその日たまたま手にした昔に読んだ小説に出てきたお酒だったからなのだ。
男はそれを見透かしているのを少し誇るように続けて言った
「マーロウはハンフリーボガートじゃねえんだよ」
「じゃあ誰が良かったの」
ぼくが続けて聞くとその男はウッドフォードの入ったグラスを一口含んで
「ロバートミッチャムだよ」
そして続けて
「いいか、ボガートはまず鼻が違う。マーロウの鼻はミッチャムの方が適している」
と言った。
「まあぼくもそこを全然否定しませんし、まずぼくはマーロウの鼻について何もこだわりはないんですけれど」
とぼくが言うか言わないかの間に
「そしてここも重要だ。アイリッシュっていうのはな、タフだけどセクシーなんだよ…」
と彼は語り始めた。けれども、ぼくはフィリップマーロウがアイリッシュ系だったのかどうかというところに引っかかってしまって、そこから後の彼の話をほとんど覚えていない。
「イーグルスだな。これは」
その彼の言葉で、ぼくは解きたくもないけれど解けないでもやもやしている知恵の輪はずしから解放された。
「Ol’55ですね」
「ぼくはイーグルスよりもトムウェイツのオリジナルの方が好きですね」
そう言うとその男はちょっとニヤッとした。もしかしたらそう見えただけかもしれないけれど。
「オールズモビルの55年型ビュイックロードマスターは、なんとも言えずセクシーでな」
「もしかして、あなたって?」
「冗談じゃねえよ、もしもお前の望む男がここにいたら、お前さんなんかと話しなんかしてないよ」
「じゃあ何してますかね」
「店の奥の方で呑んだくれながら、独り言のように詩を呟いてるさ」
「もっともその男も今じゃあ酒もタバコもやらんけどな」
「なんかイメージ違いますね」
とぼく。
「いいか、よく聞けよ。人ってのは流れているんだ。同じところには留まれないんだよ」
「その流れついた先は、幸せなのか不幸せなのかそんなことは重要じゃねえんだ」
「その流れに身を任せている時が力に満ち溢れているかどうかってことが重要なんだ」
「お前がもし力に満ちた川の流れに身を任せていたとしたら行き着く湖はきっと幸福の光で煌めいているよ」
男はゆっくり喋り終え、残ったウッドフォードを飲み干すと席を立った。
ぼくの、酒飲をまなくなっちゃった話はどうなっちゃったんですか?という問いかけを背中越しに聞きながら左手を上げ
「じゃあな」
と言いながら男は歩いて行ってしまった。
「満ち溢れた流れね」ぼくは独り言のように呟きながら流れるトムウェイツのGrapefruit Moon を聞き終え店を後にしようとすると、マスターがしわがれ声でぼくに言った
「さっきのお客さんが済ませてくれたよ」

2016/12/29

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