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マルタとマリア(作用因と目的因)

今回は、四原因説の中の「作用因」と「目的因」について聖書の題材をもって説明してみます。アリストテレスは古代ギリシアの哲学者で、新約聖書以前の人ですが、昨日お話した作用因と目的因の対立概念が明晰に現れているエピソードなので、あえて例示してみます。

新約聖書の中でマルタとマリアのエピソードがあります。マルタとマリアは姉妹で、姉のマルタは働き者で、妹のマリアは霊感に従う傾向がありました。

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イエスが彼女らの家を訪問した時、マルタはいそいそとイエスの身の回りの世話をしていました。その時、マリアはイエスの語りかける言葉にじっと耳を傾けていました。イエスもつい嬉しくなって夢中になって語りかけていまいた。

忙しくしているマルタは、その仕事を手伝おうとしないマリアに苛立ってしまい、ついイエスに手伝うよう諭してくれとお願いしてしまいました。そこで、イエスは「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とマルタに愉し返すということになりました。

近代的生活に慣れた私たちにとっては、マリアは単に状況判断能力に欠ける気の利かない女性のように見えるかもしれません。働き人に対する共感能力が欠けるようにも見えるかもしれません。

しかし、ここに作用因と目的因の対立概念を見ることができます。ミッションの実現のためには、様々な働きかけが必要であるのに対して、もう一方でミッションそのものを明晰に観照する必要があります。目的やミッションにブレがあると、働き人の疑心暗鬼が発生して作業の進展が滞ることがあります。祈り、ミッションを明晰に見て描くということは宗教においてはとても重要です。

このお話においても、キリスト教の伝道においても、両方の役割が必要であるということを指し示すエピソードとして読むのが無難な解釈が定着化しているようです。

アリストテレスに戻りますが、目的やミッションを明晰に見ることを「観照」(テオリア)と言っています。具体的に何を見ているのかと言うと、何度か挙げている「不動の第一動者」です。キリスト教の文脈で言えば神です。

古代ギリシア文化においては目的因の役割が大きいですが、近代文明に莫大な影響を与えているキリスト教文化においては作用因の役割も大きいです。

目的因を観照することの大切さについて、近年ではビジネスの世界でも言われ始めているようです。その点について次回お話するつもりです。

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