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ハイデガーの技術論〜技術と国家〜

前回の記事では、ハイデガーの技術論においてテクネーという概念が重要であることを触れ、その語感をつかみやすくするために民芸という補助線を引いてみた。

テクネーとは、いわばものづくりの原始的な経験であり、芸術と技術が混然一体とした状態である。ハイデガーはそこに、ゲシュテルの暴力性に抗する立脚点を見出そうとした。

しかしながら、現代においてものをつくるということは、地球に張り巡らされたサプライチェーンという網の目に絡め取られているということである。ハイデガーの言い方を借りれば、現代のものをつくる人はみなサプライチェーンという世界に被投された存在である。

地球に張り巡らされたサプライチェーンは、新自由主義的な政策によって合理的と判断された政治的産物である。そのような政治的状況に被投された存在であるからには、政治について論じない技術論は不毛であろう。

近年公刊されたハイデガーの講義録などその源流をたどると、技術論において政治性についても射程に入っていたことも明らかになっている。今回は、技術と国家の関係性について、ハイデガーが考えていたことをたどっていきたい。

 上掲書籍の第三章において、ハイデガーが考えていた技術と国家の関係について、その萌芽・展開・後期技術論の三段階があるとされている。

 1930年代〜46年の萌芽・展開の時期は、ハイデガーがナチスに深くコミットした時期とも重なり、技術は国家と深く結びついているとしている。

 ハイデガーによれば、技術は自然を掴み取って目的意識に合わせて非自然化するものである。その対象は狭義の「自然」にとどまらず、政治の領域にまで侵食する。近代歴史学は近代自然科学と同様、それに対応して近代的技術から生じたとハイデガーは言う。

 技術には制作主体がある。ハイデガーはその主体を国家であると定めた。『想像の共同体』に代表されるように、国家はその物語を設計・製作するものである。これは決して突飛な見解ではないであろう。

国家はそれにとどまらず、あらゆる存在者を「労働者」と「兵士」として動員する。 この「総動員」の一形態としての技術が、ハイデガーがたどり着いた一つの結論である。

1940年・戦時スローガン ぜいたくは敵だ
The Asahi Shimbun/Artefactoryより

後期技術論においては、この技術と国家の深い結び付きの観点が後退して、前回取り上げたゲシュテルとテクネーの技術論が前面に出てくるが、総駆り立て体制と訳されるゲシュテルの主体が国家であることは内実としては変わらない。

第二次世界大戦後、国家を背景に退かせて芸術論を前面に出したことはハイデガー特有のしたたかさがあったのかもしれないが、ここではその点には深入りしない。

しかし、いくつか疑問が残る。

疑問点1.国家が技術を通して動員するという見解は同意できるが、そのことを批判的にとらえるハイデガーがなぜよりによってナチスに加担したのだろうか?

疑問点2.技術が人々を動員する一面があるのは、近年のIT企業がSNSや動画を通して人々の意識を形成している点からして同意ができるが、その一方で、『ファクトフルネス』において端的に示されているように、平均寿命や経済的豊かさの点で技術が人々に大きな福利厚生をもたらした一面も無視できないのではないだろうか?

疑問点3.現代では国家と技術の結びつきよりも、多国籍企業と技術の結びつきの方が深いのではないだろうか?国家が半導体製造の多国籍企業を誘致するために膨大な補助金をつける時代であるし、多国籍企業が地球上に張り巡らせている膨大なサプライチェーンは、個々の国家が制御できないようになってはいないだろうか?

疑問点4.技術=国家の主体性が個人の主体性よりも優越する立場は「技術決定論」と称されているが、実際の技術開発の現場では消費者の意見や要望は取り入れられており、また公共事業においても基本的人権や環境アセスメントが不十分であるにせよ意識されているケースが見られるのではないだろうか? この観点は下記のフィーンバーグの論文において明晰である。

それぞれの疑問点については、次回の記事で検証してみたい。

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