ダンスミュージックをやめた

エイジアグループの3店舗が閉店してしまった。暗いニュースだ。

閉店した店舗の一つ、LOUNGE NEOで僕はソロの初ライブをした。2008年のこと。たしかhouzeって名義だったと思う。ハウスとジャズを組み合わせた造語、恥ずかしさが蘇る。その頃はJazztronikとかDE DE MOUSEみたいなわりとイケイケなダンスミュージックが好きで、作っていました。大学1年の時で、本当に何も知らない青年、ヴィレヴァンが好き、みたいな薄く安易な選択で音楽を作っていたのですが、大学の友人と先生との出会いで志向が180度変わりました。いや120度ぐらいか。

友人とは、カメラ=万年筆佐藤優介、マイカルブテ、月の満ちかけ今井くん、フリーA&Rの藤井くん、先輩でスカート澤部さん、Babiさん。みんな音楽が好きでしょうがない人たちだった。僕は今でも音楽をあまり知らないですが、当時はまっさらだったので、彼らの会話の8割理解出来ず尋常じゃない劣等感を感じていました。そこに現れた人生の恩師とも言うべき、なぜか非常勤講師という仮初の姿に身をやつしたレジェンドプロデューサー、牧村憲一先生である。僕はフリッパーズ・ギターすら知らなかったので何がすごい人なのか出会った当時はわからなかったけれど、明らかに強めのオーラをまとっているので、オロオロと付いていくことにした。

これらの出会いがなければ、多分大学院で芸大を受け直してアカデミックな音楽、メディアアートなどをやっていただろうと思う。(僕は芸大受験に失敗→日芸に仮面浪人→精神崩壊にて中退→芸大受験失敗→特待のある音大という流れがある)

ポップスが面白くなったのだ。世の中には素晴らしい音楽が山ほどあることを知った。2009年の頭から1年間、渋谷のWOMBというクラブで働いていたのだが、踊ることを目的とした音楽に対してさして興味がないことがわかり、ダンスミュージックを作るのをやめた。2010年の2月にファッションブランドのFRED PERRYと高橋幸宏が「Made in Englandのこだわり」というテーマの楽曲コンテストを開催、幸宏が聞いてくれるチャンス、、、というモチベーションで、優介と曲を作り始めたのがカメ万の始まりだ。それからは優介に横流しされる音楽を血肉として、毎日スタジオに籠もり曲を作った。このスタジオにパンを恵んでくださったのが牧村御大である。パンとは、折々に投下される世界の音楽の比喩であり、またHOKUOの惣菜パンという直接的な意味でもある。この頃二人がポテトチップスしか食べてないのを知っていたのだろう。

震災が起きて色々考えが変わったけれど、二人は作曲を続け、2012年2月の卒業直前にファーストアルバムをリリースした。「coup d'Etat」という作品。クーデター。名付けのセンスが若い。でも直球でいいタイトルだと思う。内容的に今聴くと拙さで苦しくなるが、自分の表現とはこれだ、という気概に満ちている。ソロをやるにはこの頃の情熱をもう一度取り戻さなければならない。生活と創作を天秤にかけてはいけない。

<今日の音楽 なし>

追伸、コロナのことで中国は賠償しろ、と言っている人々がいるが、我が国は今もなお世界に放射能をばら撒き続けている現状を忘れてはならない。

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追記、自分のための備忘だが、ダンスミュージックに興味がないのではなく、ドラム、ベース、グルーヴ全般について、興味がない可能性がある。これは僕が幼い頃から密に接してきた教会音楽(カトリックのコーラス)が大きく関係していそうである。教会では踊らない。

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