センス

センスの良さ、について考えていたら際限なく惨めな気持ちになって、今日は寝られそうにない。これはライフスタイル全般についての話である。

まず前提として、僕はセンスが良くない。部屋には100均のタッパー、ユニクロのインナー、ニトリのカーテン、贈答品のタオル、蛍光色の飾りのついた洗濯機、挙げればキリがない。センスが良くないと認識しつつも合理性と経済的理由からそれらのものを選択している。この1LDKは山積みの妥協で構成されている。

しかし、センスとはいったい何なのか。その正体はどこにあるのか。

前に音楽のイデアについて書いた。

曲がりなりにも僕は音楽で生活しているので、プロとしての立場で音楽を認識している。ここにセンスという見地から音楽を見た時、それがジャンルによるものなのか、シチュエーションによるものか、はたまた音色のディティールなのか、角度はありつつも、良さ/悪さのグラデーションについては判断ができる。外見だけ小綺麗なカフェでかかってそうなヒット曲をボサノバ風にアレンジした曲とGetz/Gilbertoでは比べるまでもないが、その判断の基準は今まで吸収してきた音楽が基になっている。

では、このようなセンスの認識を先に挙げた部屋の問題に置き換えた時、恨めしいほどの惨めさが露呈してくる。具体的には視覚デザインについてであるが、ここで皿の話をしたい。

20年来の付き合いになる先輩の結婚式に出席した時、招待状に「あなたはどちら?インドア派/アウトドア派」と選択する欄があり、どうやら引き出物の種類に違いがあったようで、インドア派を選んだ僕の引き出物には皿が入っていた。

イイホシユミコという作家さんのラウンドプレート。一目見てその色や形から良い品だと理解できる。(ちなみにアウトドア派にはAēsopのトラベルセットが入っていて、おしゃれとは無縁の後輩がいらないというので他に入っていたコーヒーのドリップセットと物々交換した)

さて、困ったのは持ち帰ったプレートを置くに相応しいテーブルがないということ。そしてそのプレートが仕舞われるシンクの下には100均のタッパーが所狭しと占拠していることだ。適当に打ち込んだMIDIのピアノにグァルネリを録音しても得られるものはない。センスが伴っていない状態でモノの持つ価値を感じることが出来るか。恥ずかしい。スウェットにヴィトンのクラッチぐらい恥ずかしいじゃないか。なんでこんなことを許容してるのか。

これは合理性に重きを置いたせいだとわかった。実はある時ラウンドプレートを電子レンジでチンしたら(・・チ、、パチパチ・・・)と嫌な音がして、すぐ開けたものの、くすんだ深みのある緑だったお皿が白っぽく変色してしまったのだ。僕は便利なのですぐ電子レンジを使ってしまうが、このお皿を持つレベルのライフスタイルに電子レンジは許されないのか、、、と、消沈してしまった。

いや電子レンジ可のおしゃれな皿もあるでしょ、ともいえるが、ここで感じた惨めさとは、電子レンジでチンしてはいけない皿が存在する、という認識がひとかけらもなかったことだ。これは別にアルミホイルをチンしてはいけないとかそういう化学の話ではない。皿はチンできる、というレベルのセンスで生きてきたことが恥ずかしくなったのだ。

何が言いたいかというと、羨ましいのである。ただのやっかみ。自分もセンスがいい人たちの仲間になりたいという虚栄心。ステージがあるわけです。皿だとしたら、100均→ニトリ→無印→アクタス↔ハンドメイドのようなステップアップが。100均タッパーと深緑のラウンドプレートは、高校生カップルの女の子だけおしゃれしたデートを思い浮かべてしまう。

おしゃれなライフスタイルを望むには、100均のタッパー、ユニクロのインナー、ニトリのカーテン、贈答品のタオル、蛍光色の飾りのついた洗濯機を捨てるところから始まる。こう文章で書いてみると、今回のショックの大きさが窺える。おしゃれの道は長い。

<今日の音楽 Stan Getz, João Gilberto - Desafinado>


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