ログの日に寄せて
ロックの日とログの日
Twitterトレンドで「ロックの日」が話題になる中、私は静かにリモートワークをしながら、「ログの日」のお祝いをしていた。ロックンロールのアーティストにとっての楽器は、ウェブ解析士にとっての解析ツールだ。そんなことを嘯きながら、解析ツールの与えてくれる数字の意味に想いを寄せる。ふと窓に目をやると、太陽の恵みを存分に味わった木々が、風に揺られていた。
言うまでもなく、窓越しに見える木々は確かにそこで風に揺れているわけだが、その情報は解析されることはない。ただ、自然の摂理に従って、ある種の揺らぎを繰り返している。もちろん、その木々を適切に観察すれば解析することは出来るし、データの蓄積も出来る。しかし、困ったことに世界には追いつかないほどの未蓄積データが存在する。
観察の意思によって「忘れられる何か」
私たちは解析するための「観察の意思」を持った時点で、解析しなくてはいけない何かを忘れてはいないだろうか。
ディープラーニングの世界では、何かしらの理由で欠けているデータのことを「欠損値」と呼ぶ。しかし、欠けていると言うニュアンスから遥か彼方に、「存在の忘却」がある。下の図で書いたデータを取るためには、必ず観察と言う行動が存在するが、その範疇外のものは忘れられているかのように、データが取られた意思すら存在しない。
ここでジョン・ロックのセリフを引用しよう。「観察とは、考えるためのあらゆる材料を知性に提供することである」とジョン・ロックは言っている。しかし、観察している対象と、していない対象とではどちらの方が多いのだろうか。
「存在の忘却」は何も遠い国のどこかのことを指すわけではない。実に近距離の世界でも実際には頻繁に起きている。例えば、ここでは、私の目の映る映像をデータだと定義しよう。そして、その目は何かしらの保存デバイスに繋がっていて、保存されているものだと定義する。
この場合、私たちの身体は目で画像認識をする。だとすれば目でみている限り、「背中の情報」を永遠に失っている。そのことが示すように、常に何かを失い続けながら、何かを得ているし、何かを得続けながら、何かを失っているのだ。
ログの語源は「丸太」から来ている。船の船首から海に流して、船尾まで流れる時間を砂時計や初期の機械式時計で計測し、船の速さを測ったことからその記録をログと呼ぶようになった。
そこから「log in(丸太を投げ込む)」と言う言葉も生まれているし、これこそが船の航行速度の単位が「ノット(knot:結び目)」である語源だ。
ここまで振り返ると、存在の忘却を繰り返す中、懸命に揺らぐ「窓から見える木々」は愛おしい存在に思えてくる。丸太は木々の親戚のようなものなのに、窓から見える木はログ化されることもなく、生を謳歌するのみなのだ。
手応えのあるアーカイブ
ログについて想いを巡らせた後、ウェブサイトのGoogle Analyticsを見る。すると、そこには手応えのあるアーカイブが存在している。リアルタイムアナリティクスはまるで、血管のようにドクン、ドクンと音を立てながら、誰かの来訪を告げる。観察者であるウェブ解析士は、匿名の誰かの来訪を、数字で把握する。来訪しているページURLを開くと、ささやかな同期を楽しむことが出来る。
この訪れは必然なのか、あるいは。
ページの中身に書いていることを一通り読むと、いつもこの問いを立てる。ログデータに記載されている1セッションは確かに誰かの人生の足跡である。そしてその人生に、間接的ながら、私は関わっている。
一遍の詩や小説、映画がどれほど私の人生を変えてくれたか。それは数えきれないほど多く存在した。ウェブ解析士との出会いだって、実に人生を豊かなものにしてくれた。このように情報は時に、人の人生を変える。また、人生を変える体験に結びつくための大きなバネになることがある。
逆説的だが、そこには大きな責任もある、良かれと思って伝えた情報が誰かを傷つけることもある。誰も傷つけないためには、何も書かなければいいのかもしれないが、私にはやはり「私も先人のように、誰かの人生を変えるような体験を提供したい」と言う業がある。
では、果たして、このような体験は計測されているのだろうか。人生を変えるような体験があれば何かしらのマイクロコンバージョンが起きるはずだ、と考えるならば、計測されているかもしれない。しかし、やはり感動とコンバージョンが同質ではない時がある。例えば、タグマネージャーを使えば、動画視聴時間を知ることが出来るが、果たして感動と同質だろうか。
動画を流しっぱなしで、ちょっとトイレに移動した人と、動画を見て感動して嗚咽する人を考えると、やはり同質ではないように感じる。
このような例から、「計測されていない真のコンバージョンも常に存在する」とは言えないだろうか。手応えのあるアーカイブに言えていたGoogle Analyticsのログに、急に「欠損」の存在が浮かび上がってくる。
存在するログ、存在しないログ
世の中は欠損だらけである。分かることは数少なく、分からないことばかりだ。そのためのコンパスとなってくれるはずのログにも、永遠の欠損が存在する。
この事実に、私たちは萎縮するだろうか。いやいや。洞窟を照らす明かりが例え、松明のようなものだとしても、そこにぼんやりとした光さえあれば、辺りを見渡し慎重に一歩一歩土を踏みしめながら、前に向かって歩くことが出来る。
土埃が舞う中、道なき道を歩む。この連続で先人は歴史を築いてきたのだ。永遠の欠損に立ち向かい、それでも懸命に真のコンバージョンを追うとき、ふと先人の想いが去来する。時代は違えど、偉人も同じように、暗中模索を続けたはずなのだ。
日めくりカレンダーをめくるように、今日と言う日が終わるのは一瞬だ。しかし、この小さなノートに記した私のログは、誰かの気持ちと繋がることに成功するだろうか。
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