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堀江和真さん 個展「”にゅい”な部屋」(@オルタナティブ掘っ立て小屋『ナミイタ-Nami Ita』,~5月15日)

落ち葉や枯れ枝を燃やしているような少し甘くて土っぽい香りが、坂道の半ばあたりからすでに漂っていて、さてはまた焚き火をしているな、と上りきった辺りからナミイタを見やると、ナミイタではなくその周りから白煙が右になびいていて、行ったこともないけれど温泉地のようだった。
ナミイタへ入る前に、その横、作庭工房の小屋スペースを覗いてみると、前回の仁禮洋志さん『もうれんやっさ』の雰囲気が残りつつも、流木を使って会期中に制作された椅子が今は所在なげに置かれていたり、一面に張られていた”スクリーン”も取り払われ、“舟”(漂着物を用いて制作されたもので、ご本人が会期中解体していた。それらが椅子のパーツとして使われたりもしていた)の残骸が打ち捨てられていたりと、焚き火がないこともあいまって、夢の跡みたい。

開け放たれた扉から、ナミイタの倉庫スペースに入ると、正面のロフト、その下には鉄板(ナミイタが入っているアトリエ・トリゴヤ、そちらで制作されている吉川陽一郎さんのものだそう)があって、そこに「テナント募集」、「メタセコイアに親近感を覚える」といった言葉や、オリジナルの、どこか海外風のキャラクターがあしらわれ、切り抜かれたプラ板が、たくさん折り重なるように貼り付いている。
この光景は、ちょうど1年前のGWの頃に見た「いとまの方法」というグループ展を思い出させて、会場である児童養護施設・杉並学園、受付を済ませて入ったすぐの辺りにも同じように貼り付けられ、今回のように観客を迎えていた。
その時の写真と見比べると、使われているプラ板自体、同じもの(デザインが、ということで、同一のものかはわからないけれど)もあれば違うものも混ざっているし、ひとつひとつの貼りつけられ方はそれこそまったく違うものの、密集して貼りついた全体のイメージとしては同じに見えて、かつそれが1年前の光景と繋がることは、今回の展示が、伺ったことのないスタジオとも繋がることや、堀江さんの部屋や造形教室の様子が、机に置かれた冊子から窺えることとも通ずるよう。
プラ板の裏にはマグネットが付いていて、訪れた観客も自由に貼ったり取ったりしていいとのことだったので、眉の繋がっていないフリーダ・カーロみたいなキャラの額に、細長くてサンマのような魚を貼り付けてみた(杉並学園でも、こどもたちがそれらを自由に貼っていたらしく、入ってすぐのところだけでなく、園内のいたるところに散りばめられていた)。昼過ぎには、堀江さんの教え子のこどもたちも遊びに来ていて、直接見ていたわけではないけれど、ギャラリースペースを眺めている間にも、隣の倉庫スペースから「パチッ」「パチッ」という対局めいた音がしばらく続いていて、後で行ってみると、鉄製のテーブル(これまた吉川さんの作品らしく、脚にはキャスターがついている)を縁取るようにプラ板があしらわれていた。

そのテーブルの上あたりには、同じくプラ板の作品があるものの、今度は「E」をかたどった鉄製の箱のようなものを支持体としていて、その正面を埋めつくすように貼られている(おそらく、《イメージを置く》というシリーズの一作だと思う)。こどもの頃、プラ板を何度か作った時は、表から塗っていた気がするけれど、堀江さんの作品は裏から彩色されているのでその厚さの分だけ色が遠く、斜めからだと色がずれて見えるのが、浮世絵で色が輪郭線からはみ出している時の、はみだしははみだしだけど、それがむしろ動きを感じさせて面白いような、そんな見え方とも通ずる気がする(特に“はみだし”ていて、幽体離脱のごとくずれている男の子?のプラ板が気になって、結局それ1個だけを購入した)。その隣には“にゅい”っと、脚の長い象が立っていて、左右の脚を揃えて、鼻を垂らした佇まいが、壁面の「E」を横倒しにしたみたいに見える。

ロフトには映像作品が投影されることが多いけれど、今回は、フライヤーの画像が映し出されている。はじめは、この隣のギャラリースペースで撮られたものかと思ったけれど、よく見ると堀江さんのスタジオのようで、その一瞬の勘違いも、引っ越しの時に、全く別の部屋と部屋とが“家具”によってその面影を一にするような、そんなこととも通ずるようで、ソファ(型の《にゅい家具》)に座る堀江さんの姿は、現在制作中らしい、観客が“部屋”でくつろぐ姿をおさめた写真集、そのお手本みたいでもある。
1枚の画像なので当然画面に変化はなくて、でもその変化のなさが、これまた前回の仁禮さんの個展で、同じ場所に投影されていた《Long end》、灯台が眠るまでの数時間をさらに引き延ばした映像作品の、ゆったりとしつつも確実な推移と対照的だった。堀江さんの意図ではないはずだけれど、こうやって前後の展示がどこか繋がって見えることも、ナミイタというスペースの好きなところで、それは、“家具”によってスタジオとナミイタを繋いでいるこの展示にも通ずる気がする。

靴を脱いでスリッパを履く(毎回のことだけれど、今回はこのことも“部屋”感を強めている)と、“玄関”すぐ左手には《ふくよかなガイコツ》という作品が掛けられていて、タイトル通り「ふくよかなガイコツ」という言葉が画面中央に黒く縁取られており、その中は、真っ先に飛び込んでくる緑と、黄色、赤、少しの青とで、それぞれ原色のまま塗られている。周りの画面は白でざっくり塗られ、その上に「2022年10/26 10:10-10:26」から「12.22 6:40-7:00」までの9つの日時が散らし書きされている(表記の揺れは作品に準拠していて、その揃わなさも、“書きつけた”感じを強めている)。さらにその上からは、ジェルメディウム? がところどころのせられていて、下から色が透けて見える感じは先のプラ板みたい。支持体である木の板は、1回の制作につき4分間削られているそうで(ということは、《ふくよかなガイコツ》は4分間×9回分削られているのだろうか)、厚さもあいまって形だけなら机の天板みたいで、パネルそのままの時とは違う物体感がある。

これら《やせる絵画》シリーズは、《ふくよかなガイコツ》のように額装されていないものもあれば、額装されているものもあって、その額は、四隅に彫刻の施された古風なものながら、堀江さんによって彫刻のシャープさが鈍るほどたっぷりとした原色で塗り替えられていて、裏板も、補色だったりそうでなかったりするものの、喧嘩しそうなほど鮮やかに塗り分けられている(例えば、黄色の額に黒の裏板、ミントグリーンと真紅)。
しかしその額と裏板の色は、なにもデタラメではなくて、レモンイエローが背景に使われた作品では裏板も同系色だったり、モチーフが青く塗られている場合は額も真っ青で、削られて丸みを帯びた画面を内側から縁取るようなピンクの線には、やっぱりピンクの裏板が合わせられて…と、服を着せるようにコーディネートされている。そして目線を少し下げると、レモンイエローの裏板の額縁、その下に据え付けられた棚に載る《ペインティングビルド》(造形教室で出た端材を2~4個組み合わせて単色で塗ったもので、観客はそれらを好きに触って積むこともできた)の内ひとつは黄色で、そこから左の方を見ると、今度は額が黄色の作品が掛けられていて…と、部屋全体に星座のごとく色が張り巡らされている(私は同じ色ばかりを追ったけれど、補色とか、何か他のつながりがわかる人だったら、もっと面白い“描き方”ができそう)。

また、張り巡らされているのは色だけでなくて、アトリエ・トリゴヤに繋がる扉の右横に掛けられた、ミントグリーンの額に入った《ジャンプ(やせる絵画+にゅい家具)》と、そこから左手の木目調の壁に掛かった、オレンジの額に入った《house(やせる絵画+にゅい家具)》のそれぞれに記された時間を見比べると、《ジャンプ》が「2023 3.29 13:28-13:34」で、《house》が「2023 3/29 13:20~13:28」となっていて、《house》に手を入れたその直後に《ジャンプ》へ着手していて、その後の時間もだいたい連続しており、《ジャンプ》が4月5日に、《house》が6日に完成するまでその関係が続いていた。ここまで連続していたのは、たしかこの2作品だけだったけれど、ある作品のだいたい一年後に、別の作品が作られていたりすることもあって、作品同士の、制作年・時・分単位での前後関係が、色と同じく張り巡らされている。
記載されている日時を1回とカウントすれば、どの作品もおおむね10回前後の作業で完成していて、ヤスリがけの時間も40分前後になると思われる…という風に数字に置き換えると、どの作品もだいたい同じような削られ方をしているような印象を覚えるけれど、実際の作品は違っていて、丸くなった角のその丸みの具合も違えば、各辺の”うねり”具合も異なっている。テーブルのようにきれいなラインを描いているものもあれば、二度三度と辺が大きく揺らいでいるもの、表面まで少し削られているもの、削った後のささくれが残っているものもあって、削られるということも、ひとつひとつの作品が個性化していく歩みとなっていて、それは人でも同じかもしれない。

オレンジの額に入った《house》の左隣には、倉庫スペースにもあった《イメージを置く》の一作があって、倉庫のが「E」であったのに対し、こちらは「O」で、その表面を覆いつくすようにプラ板が貼られている。
ナミイタのギャラリースペースはL字になっていて、そのちょうど角の辺りに「O」が掛けられているので真横から見やすくて、改めて、正面だけにプラ板が貼られていること、厚みの部分にはまったく付けられておらず、鉄の支持体がむき出しになっていることが見て取れる。
その“平面性”は、《にゅい家具》と化した額が、その側面まで原色に塗りこめられているのと対照的でもあり、一方で、その中に収められた《やせる絵画》が、絵画として平面に徹していることや、貼り付けられたプラ板の平たさとも呼応しているようで、「パチッ、パチッ」とこどもたちが音をさせながら机の輪郭をプラ板で覆っていたのとは違い、あくまで正面だけ覆うところに、堀江さんの手つきが感じられる。
「いとまの方法」では、キャビネットや防火扉?といった場所場所の一部を覆うように施されていたのに対し、今回の《イメージを置く》は、立てかけられたり壁掛けだったり、あるいは自立したりとそれだけで独立しており、その可搬性も、構成要素であるひとつひとつのプラ板と等しいし、正面だけを平面的に覆っているからこそ、支持体は違えど”同じ”という印象が優って、作品同士や、展示同士が結びつくのかも知れない。そんな佇まいに、「通り抜けフープ」(ドラえもん)を連想してしまう。
そう考えると、当たり前ながら、「E」や「O」というかたちをただ“デコって”いるのではなく、《イメージを置く》というタイトルが示すように、まさしく「密集したプラ板」というイメージが頭の中に置かれるよう。《やせる絵画》に描かれた「ふくよかなガイコツ」や「ベーコンエッグ」という言葉が、意味から文字のかたちへとシフトしていくように、支持体としてのアルファベットも、散りばめられたプラ板によってただのかたちへと回帰されるみたいで、見知ったアルファベットを、異国の文字としてはじめて出会ったその時まで引き戻しているようにも思える。

そんな異化効果は、堀江さんのどの作品にも感じられて、特に《にゅい家具》は、その原色の色合いがおもちゃ(レゴとか)のようである一方、当然ながら家具としての大きさを持っていて、その“ミスマッチ”が、いつまでも解消されずに残り続けるところに、面白さがあるのかも知れない。
同様に、ここが“部屋”であることにも、(私は)いつまでも慣れなくて、例えば、堀江さんが“ソファ”に座ってご友人と話しているのは序の口で、置かれている《にゅい家具》や《ペインティングビルド》、そしてプラ板は触って積んで位置を変えていいし、なんなら淹れてくれたコーヒーを、《ペインティングビルド》の置かれている棚に置いてくれたりもして、その都度ためらったり驚いたりしてしまった。それは、ここナミイタだけでなく、展示に生半可行き慣れていることが影響しているようで、こどもたちの方が普通にリラックスしていた。

リラックスを「骨休め」と言い換えれば、やっぱり前回の仁禮さんの展示と繋がるものの、仁禮さんの展示では、外にある作庭工房・小屋スペースに《椅子》と焚き火が用意され、投影された海を見ながら休息する場として設えられていた一方、ギャラリースペースは”船内”の雰囲気が漂いつつも、あくまで鑑賞空間だった。今回の堀江さんの空間は“部屋”ということでギャラリースペース自体が日常の場ともなっていたし、さらには撮影セットでもあって、来場者は、制作中の記録集/写真集にモデルとして参加することとなった。その際に、ソファに座って、バケツを抱えて…とポーズを教えてもらい、その通りに振る舞うことは、散々遊んだ《ペインティングビルド》のひとつとなって、他のパーツと組み合わされるよう。
そして、かわるがわる訪れる訪問客と話し、時には相談を受ける堀江さんはセラピストのようでもあり、ご自身でも箱庭療法という言葉を使っていたけれど、この空間自体が、ひととき現れたプレイルームでありカウンセリングルームだったのかも知れない。
そんな”部屋”でお会いした堀江さんは、初対面なのにあまりそんな感じがしなくて、何故だろうと思ったら、《サンドイッチマンスタイルの展示方法》という、3Dプリンターで再現したご自身の像、その前後に絵画作品を(それこそサンドイッチマンの如く)掛けた作品を、「いとまの方法」で拝見していて、シルエットに見覚えがあったからだと、すっかり暗くなった下り坂で気がついた。

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